《迷子になったら、まずは安全な場所に移動して、動かず俺を待っていること》
普段から迷子の鉄則としてくどいほど念を押されていたが、アッシュ自身は、本当にルークがアッシュとはぐれる事態など、おそらく想定していなかっただろう。彼は子どもを連れた牝鹿のようにルークを目の届くところにいさせたし、ルーク自身も、面映さをこらえながら、それを素直に受け入れているのだから、本気でそんなことを心配していたわけではなく、それもアッシュが日々仕掛ける甘い会話の一つでしかなかったはずだ。
洞窟の中では、二人とも空間の歪みに気をつけていたが、突然足もとに出現したものには対処のしようがない。おそらく、これまでもあの洞窟の中で歪みは現れたり消えたり、時に位置を変えたりもしていたのだろう。今ごろジェイドが調べてくれているだろうが、さしあたって今ルークができることは、言いつけ通りに安全な場所へ移動することだけだった。
幸いにも、飛ばされた場所は洞窟の入り口であり、安全な場所とはすなわち何度も行き来した最寄りの街であった。アッシュがまだ中にいるのかもしれなかったが、一人で探しに戻ったのがバレたら、アッシュはきっと、きついお仕置きをルークが望んでいるものと決めつけ、ベッドから立ち上がれなくなるほど攻め抜いてくる。その選択肢はまずあり得ない。
真っ暗だったのですぐには動かず、二時間だけその場でアッシュが出て来るのを待ってみると、東の空が薄らと明るくなってきた。どうやら場所だけでなく、時間も半日以上飛んでしまったらしい。ことによるとアッシュがすでにルークを迎えに街へ戻った可能性もあることに気付き、ルークは慌てて街へと戻ることにした。
地図にも載らない小さな街なので、宿も一軒しかない。とはいえ料理も絶品で部屋も清潔なためなんの不満もなかった。問題があるとすれば部屋が空いてない場合がたまにあるということだが、同じ野宿なら街中の空き地のほうが安全だ。空室がなければ、街の囲いの中にある果樹園で寝かせてもらおうとのんきに構えて歩き続け、朝食の時間になるころ宿についた。これなら部屋がなかったとしても朝食だけは食べられる。
入ってすぐ、細い間口の左にカウンターがあり、見慣れたそばかすの少女が座っていたが、入ってきたルークを見て、少し目を見張った。
「部屋、空いてるかな?」
「えっ、はあ? 空いてるもなにも」
少女は驚いてルークの顔を見つめ、ふいに腑に落ちたような顔をしてふっと視線をルークの胸元に落とした。ルークが居心地悪さに身じろぎするほど凝視したあと、少し首をひねってから「一部屋空いてるけど……」ととまどいがちな声を出した。
「頼むな。それと、朝食も。食堂で食うから」
「あ、でも今……。いえ、えっと、はい」
闊達な少女にしては奥歯にものがはさまったような話し方をするとルークは首を捻ったが、宿じゅうに充満している焼きたてのパンの匂いに耐えかねて気にしないことにし、さっさと食堂に向かってしまった。このとき、少女の態度をルークがもっと追求してさえいれば、後の展開が変わったかもしれない。
──なんてことはあるはずもなく、ルークがほんのちょっとの労力を惜しんだことは、後にも先にも、なんの問題にもなりはしなかった。
食堂に足を踏み入れたとたん、すみのテーブルで朝食を摂っている仲間たちの姿が目に入った。ここへはアッシュと二人で来たはずだったが、昨晩二人が戻らなかったことで心配をかけたのかもしれないと気付き、ルークは慌てて駆け寄った。気配を察して丸テーブルの正面に座っていたガイが顔をあげ、ルークに気付いたとたん、手にしていたフォークをすべらせる。ガチャン、という音が響き、あるものは顔を上げ、またあるものはガイの視線を追って後ろを振り向いた。
「ルーク?!」
「アッシュ! やっぱり先に戻って、」
ルークは真紅の髪を目にしてほっと胸を撫で下ろしたが、すぐに表情をこわばらせた。「……アッシュ?」
アッシュの目が驚きに見ひらかれ、何かを見比べるように視線が流れる。つられて視線を動かすと、手前に座っていたジェイドの影から、やはりカトラリーを手からすべらせた自分自身が、ぽかんと口を開けてこちらを見つめていた。
「お、おれ……?!」
「ルークモドキ、か……?」
少し掠れたガイの声がルークをまっすぐにみて問いかけて来る。
「──モドキ? お、おれもルークだけど……」
立ちすくんでいるルークの前に、まるで自分だけが世界から弾き出されたようにいつもの朝食の光景が広がっている。
「ルーク」
「ガ、ガイ……?」
「落ち着け、ルーク。俺たちは事情を知ってる。落ち着け、大丈夫だからな?」ガイが立ち上がり、ルークを空いた席に導きながらなだめてくれる。「君の捜し人は、今はここにいない。夕べここで話をしたあと、宿もとらずに君を捜しに出て行ったんだ。だけど安心して。今日の夜には一度戻って来ると言っていた。ここにいれば、絶対に逢えるから。食事して、休んでいるといいよ」
いつもいつも想像していた。アッシュが記憶を取り戻したら……と。それが、想像よりも恐ろしいかたちになってかえってきたのかと、ルークは何度もアッシュを見、そのたび慌てて視線を逸らした。どうみてもアッシュじゃない。いや、顔はアッシュで間違いない。ただ、その生真面目そうな不機嫌面が、ルークの知るアッシュのものではないだけで。
ちらちらと見られていることが気に触ったのか、アッシュの額に青筋が浮いて来た。髪型は前のように上に固めてある。懐かしいはずのものなのに、なぜこうも刺々しい拒絶を感じるのだろう。
「捜し人……。あ、お、おれが捜してるのは」
「アッシュだろう?」ガイが肩をそっと押さえて席に座らせると、すかさず自分自身のように瓜二つの『ルーク』が手をつけていない自分のぶんの紅茶をすべらせてくれた。
「アッシュ……なんだけど……」
記憶を失くす前のアッシュに近い、不機嫌なアッシュをちらりと見ると、ぎらっと睨み返されて身をすくませた。
「嘘みたーい。ほんとにルークにそっくりだねぇ、モドキさん。あ、ねえ! 並んで座って座って〜」隣のアニスがわくわくと立ち上がり、ルークではない『ルーク』に席を交換するよう身振りで示した。『ルーク』が苦笑して立ち上がり、ルークの横にきて、親しみをこめた笑みを見せて座った。
「……っ」
「……まあ……」
ティアがうめき、ナタリアが感嘆の声をもらした。
「わあ〜! 並ぶとほんとに見分けがつかないよぅ! アッシュモドキ、けっこうすごいヤツだよねぇ〜! どこでどうやって見分けたのかなぁ?」
「表情が違うと言っていましたが……うーん我々にはわかりませんねえ? 今は着ているものでかろうじて見分けがつきますが。あとは……」
「あとは……」
顔をのぞき込んでなんのかんの好きなことをいっていた仲間たち全員の視線が、光の早さで顔から胸へ上下した。
「そういえば、ルークと同じ格好はできないって言ってなかったか?」
「で、でも。……あるように見えねえよな? おれ、ものすごい不気味な感じで想像しちまってたんだけど……あ、あ、ごめんな、おれモドキ」
興奮のあまり、仲間たちが口々に言い合っているなか、どうみてもアッシュにしか見えない、だがアッシュではない『アッシュ』が舌打ちをもらした。「てめえとあいつは、洞窟の中の歪みから別の世界に来ちまったんだよ。ここはてめえの知る世界じゃねえ」
「洞窟の……」ルークは『アッシュ』を見、『ルーク』を見た。言われたことが飲み込めると同時に、不安と恐怖が渦巻いていた胸から、それらがすうっと払われていく。
信じ難いことだが、洞窟には確かに歪みが存在したし、ルークはそこに落ちた。それに、もう一人の自分が目の前にいるのだ。
だがともかく、アッシュもここにいるのなら、ルークが怖がることなどなにもなかった。
「わかった。ありがとう、アッシュ」
ほっとすると同時にルークのぶんの食事が運ばれてきた。違う世界のジェイドと、双方の世界で、状況や、今なにをしているかなどの違いを話しながらカトラリーをとる。
「それにしても、あなたは現状認識能力が高いですね。『ルーク』ならばもう少し混乱しているかと思っていましたが」
感心したようにジェイドが言い、『ルーク』がなんだよ、とふてくされる。
瞬時に状況を見極めろ、とずいぶんアッシュにうるさく言われたけれども、これはそういうことではない。単にアッシュが消えずにいてくれるという事実だけ確かなら、ルークに怖いものなどない、それだけのことだ。
「あっ……!」
「ぐ……」
突然キィンという高い硬質な音がして、酷い頭痛が襲った。スプーンを落とし、スープが上着に跳ねる。隣で『ルーク』も千切っていたパンを落として頭を抱え込んでいる。もう、懐かしいほどに遠くなった痛みだった。
「なにをするんだ!」「やめて!」仲間たちの怒号が聞こえると同時に、突き抜けるような痛みが引いていく。
「ルーク、大丈夫か」
ガイの呼びかけに汗に濡れた顔を上げると、ガイが小さな麻布で汗を拭いてくれ、カラカラに乾いた口に冷たいオレンジジュースが入ったグラスをあててくれた。『ルーク』のほうは反対隣のティアが甲斐甲斐しく面倒を見ているようだ。
「う、うん。久しぶりで……。ちょっと驚いちまった。大げさでごめん……」
ガイが悲しげに首を振る。「いや。俺たちのほうこそ……」
「どうやら、お前も俺のレプリカだというのは本当のようだな」
「アッシュ!」
複数の声が抗議の声をあげるのに、ルークものろのろと顔を上げた。「おれは……確かにアッシュのレプリカだけど、お前のじゃねえよ……」
「ふん。そんなことはどうでもいいんだよ」『アッシュ』はうるさげに一蹴したあと、おもむろに頬杖をつき、表情に嘲りをこめて言った。「てめえ、あいつにケツ掘らせてんだってな」
「……」
アッシュのやつ……やっぱりここでも垂れ流しなのかよ……。
ルークは唖然と口を開き、閉じ、真っ赤に紅潮して行く頬を隠すように片手でおおった。情景が目に見えるようだった。始末におえないのは、それがアッシュの嫌がらせなどではなく、周囲への牽制であり、恋人自慢であることなのだ。アッシュは人の目や評価など気にしない。こんなふうに怒りを感じたり、引いたりする人もいることなど気にもしないのだ。いや、もしかしたらそういう人を確認して、敵にはなり得ぬと安心を得ている可能性もある。ルークもそれがわかるようになるまで、しばらくはいちいちショックを受けていたものだったが、しょせんはアッシュのレプリカ。徐々に気にならなくなっている自分が、いっそ怖いほどだ。
──だけど、恥ずかしいことにはかわりないのに、アッシュのばか!!