【9】
「あ、あの子を見殺しにするのか? そういう──決定がされたってこと?」
「そうだ」
アッシュは迷いを見せることなく断言した。真面目に追えば、兵がそのまま死者の列に加わるだけで、なんの益もない。疲れて弱った女を連れていても、そろそろマルクトの国境を越えた頃合いだ。あとのことはマルクトに押し付けてしまえばいい。
力が抜けたように俯いて、ルークがぽつりと言った。「あいつ、何者……?」
「……マルクトの前帝が飼っていた、細作の一人だ。元、だが」
仕事の内容は、ローレライ教団における特務師団と、実はさほど変わりがない。
あちらは仕えるのがマルクトの前帝個人で、しかもかなり冷酷な人物だったため、教団よりも多少非道な真似が多かっただろうが、教団とて清廉潔白な組織とは到底言えない悪辣な真似もする。だが個人個人の能力を比べれば、あちらが圧倒的と言えた。それは彼らがすべて、高い能力を持った者から勧誘されることでその道に入ったことによる。
「経験者が、これと見込んだ子どもの性格や生活態度を一定期間観察し、資質があり、使い物になると判断した上で声をかける。前帝からのシステムだが、口の堅さ、度胸、判断力、身体能力、元々その手の才能に恵まれていたやつがやる気になって細作になるわけだ。キムラスカにもそういう役目の者はいるが、マルクトとは違って代々親と同じ役目についているとか、元は孤児だったものを引き取って訓練したりだな」
「孤児? なんで子ども限定なんだ?」
「暗殺技術の譲渡やなんかも含めてだが、外部には決して漏らせない情報を扱う事情があるからだ。だからどちらも幼児期に隔離され、閉鎖された場所で生活して、そういうことの重要性を骨の髄まで叩き込まれていく」
「ああ……」
ルークは頷いた。とても惨いように感じるが、子ども本人が己の意思でその道に入るマルクトは、まだしも人道的なほうなのだろう。例え優秀な人材を効率よく確保しておく方策にすぎないのだとしても。
「一方ダアトになると、口が堅く、そういった任務に向いていると見込まれた者がそういう部署に異動させられる。幼年学校の生徒がいきなり特務師団に入ったりはしねえな。俺の場合はヴァンが俺を監視するために身近に置いておく必要があったからだろう、特殊なんだ」
正直、ルークには特務師団の仕事内容というのがよくわからない。アッシュが口にする「汚い真似」というのがどういう真似を指すのかも。だが、それをさらりと聞いただけで、あの男が様々な面で高い能力を有していると言うことだけはわかった。
「だ、だって、元っていうことは今は違うんだろ」
「まあな。歳はたしかヴァンと同じくらいだったと思うが、おそらくホド崩落のあれこれにも関わっているだろう。ランツは歴代でも一、二を争う手練で、前帝時代の暗部をかなりのところまで知っていると言っていい。だから前帝は身罷る前に奴の暗殺命令を出した──ま、生きてやがるんだし。討ち手がそのまま逃げたか、あるいは返り討ちにされちまったか、そこまではわからねえ。現皇帝はそれを知った時点でその命令を取り消し、戻るよう密かに呼びかけたというが……ま、戻ってないということは仕える気はないということだろう」
ルークはぐっと震える拳を握った。
自分には、そんな男を倒して少女を救う力がない。アッシュにもないという以上、他の者に死にに行けなどと言えるはずがない。
「なあ、あいつ……。逃げ切ったら解放するって約束してたけど……そういうの、守るやつ?」
「連れ回してるあいだに、どうしても人質には自分に関する余計な情報を与えるだろ。そういう隙を残すやつじゃねえよ」縋るようなルークの問いにアッシュはにべもなく首を振ったが、ルークの瞳に涙が滲む前に、少しだけ首を傾げた。「……ただ」
「ただ……?」
「彼女に限っては、殺されることはないんじゃねえか……という気がする。確証はないんだが」
浮かびかけた涙を引っ込めて、ルークはまじまじとアッシュを見つめた。
「なんで?」
「なんでって」アッシュはそんな問いが返ってきたことに驚いたような顔をして、ついで困り果てたような顔をしてうなじの辺りをしきりと揉んでいる。「……わからねえよ」
「だ、だって、そんな風に思うならなにか根拠があるんだろ?」
「根拠……」
アッシュは一度唸ったきり無言になってしまった。なぜそう思うのか、自分でもはっきりわからないようだ。
こんなに自信なげなアッシュの姿は、ルークが初めて見るものだった。確証がないと言い濁したのは、きっと本当にそうで、ごまかすつもりなどではないのだろう。
「……アッシュ。確証がなくてもいいよ。それでも、言って欲しい。なにも出来ねえなら、せめて無事くらい信じたいだろ」
アッシュは大きくため息をついた。「……あいつは、初めからあの娘を連れに来たんだと思う。殺す気も、解放する気も、多分……ない。と、思う」
殺す気も解放する気もない、という最も知りたい部分がまず真っ先に耳に入った。次いで、残りの部分を咀嚼する。「それって、どういう……」
「わからねえが……多分」
「多分──なに?」
「……惚れたとか、そういう……」
え、とルークがアッシュを見つめたとたん、アッシュはいやいやと首を振った。「やっぱ、ねえわ。今のは聞かなかったことにしてくれ」
「もう聞いちまったって」
ルークが畳み掛けると、アッシュは自分の発言を悔いるように天井を仰いだ。
「──あいつ、保護施設まで結局何をしに来たんだと思う」
「……そういえば……。あ、でも、アッシュに会いに」
「んなわけねえだろ」
馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにルークの台詞を途中で切ったものの、アッシュはルークと視線が合ったとたん、困ったように視線を逸らした。
「アッシュも、あいつがあの子の首を傷つけたの見たんだよな? それでもそんなふうに思うのか?」
「いや。ああ、そう……なんとなく」
ルークはアッシュの様子をしばらく憮然と眺めてから、あの男が少女を人質に取ってからしでかした非道を思い浮かべた。
好きな人の髪を引っ張って苦痛を与えたり、皮膚一枚といえど切り裂いたりするものだろうか。人の命を盾に取って脅したり、そんなことをすればただ怯えさせ、嫌われるばかりなのに──。
だがそう思う反面、レプリカが好きではないという男が、その感情のあり方になぜああもこだわっていたのか、腑に落ちたような気もする。
「……おれをレプリカとは思えないって、何度も本当かって聞いたのは……あの子がおれのようになるかどうか知りたかったのかな。掴み合って喧嘩なんかするようになるのかどうか、とか……」
アッシュの返事はなく、ルークはつかの間小さなテーブルに視線を落としたまま、あのときのやり取りを反芻し、彼女が無事であると信じるに値する小さな証拠を掴もうとした。
「……髭がねえからかな、ヴァン師匠よりは若そうに見えたけど、同じくらいだっていうならあいつ、もういい大人なんだよな。だけどもしかして……どうすればあの子に好きになってもらえるか、わかんなかったのかな……」
優しくしてあげて、好きだと言ってあげれば──今は意味がわからないとしても──変わる気持ちもあったかもしれないのに。
「……どうすれば好きな奴に好きになってもらえるのかなんて、俺だってわからねえよ……」
ぼそりと呟いたアッシュの声音に、少しばかり安堵の色が混じっているような気がして、ルークは小首を傾げた。
ルークの発言の何かがアッシュを安心させた。
しばらくの間ぐるぐると考えて、ランツという男があの子を連れて行った理由──アッシュの勘を、ルークが信じようとしていることではないかと思い当たった。ルークに彼女の無事を信じさせ、安心させたから? それともこれ以上、あっさりと連れて行かせたことを追求されずにすむからか?
その考えが浮かんだとたん、何かひやりとしたものに背中を撫で上げられたような気がした。
もしもアッシュが思う通り、あの男が少女を連れ出しに来たのなら、あの男は決して少女に取り返しの付かないような傷付け方をしないはずだ。
それをあのときすでに勘付いていたのなら、アッシュはあの男から少女を取り返すことも出来たのではないのか。
アッシュが保護したレプリカを決して傷つけられないことをあの男は知っている。アッシュだって、彼女を盾代わりにされたら全力で切り掛かる無茶はできない。だが反面、あの男だって本気であの子を盾にすることはできないはずだ。その状態で切り結べば、いつか一旦あの子を放して身軽になる必要が生じた。運が良ければ互角になるかもというアッシュがその隙を逃すとは思えない。
あの男にも、あの子を片腕に捕らえたままで本気のアッシュを撃退出来る能力はないのだ。
なら、なぜ?
あの男があの子を脅迫したように、本気で周囲の人々を傷つけると感じたからか?
もちろん、少ない情報の中でルークが想像する男の人物像が合っていれば、確かにそれをためらう男ではないように思える。
だが、ルークはそうではないような気がした。もしかしたらアッシュ自身、意識していないにせよ。
アッシュは、故意に彼女を連れて行かせたのだ。
アッシュとランツ、二人は似たところがあると、マティアスは言った。アッシュはランツに自分を重ねていたのかもしれない。あの子とルークでは、前提条件が全く違うのに。
アッシュは被験者とレプリカだからとか、男同士だからとか、あるいは罵倒を繰り返して傷つけたからとか、様々な理由でルークに拒絶されることを恐れず、まっすぐ気持ちを伝えてくれた。出来れば同じ気持ちを返して欲しいと、乞うてくれた。
ルークはアッシュを必死で追って来たし、今もまた、好意を持ったうえでその気持ちを見極めようとしている。全然違うのだ。
ルークは少しばかり目が覚めたような気分でアッシュを見つめた。
自分より十……今は実質それ以上に年上になってしまった男。ルークなどよりずっと大人で、思慮深いとずっと思っていた。自分のように短絡的にものを考えて、失敗したりするようなことはないのだろう、と。
だが、ここに至るまでに触れた様々な真実が、彼だってごく普通に、弱いところもずるいところも馬鹿なところだってある普通の青年なのだという事実をルークに突きつけてくる。
「なあ、アッシュ。アッシュはあいつとは違うよ。もし俺がお前の望むような形では応えられなかったとしても、それはお前が思ってるような理由からじゃない」
はっとしたように目を見張り、すぐに恥じたように視線を伏せてしまったアッシュを見つめて、ルークはなんだかこれまでになかった不思議な感情を覚えることになった。
ルークと同じように、アッシュもこれまでの行いを恥じるところがあって、自分など愛されるはずがないと心のどこかで決め込んでいるのだ。でも、もしかしたらという期待は捨てきれずにいる。
言葉では否定しながら、あの男を自分と同類だなどと思っているから──そんな馬鹿げた思い込みをしてしまっているから、男がなりふり構わず求めるものを、アッシュは与えてしまったのだ。確証はないといいながら、アッシュはきっと頭ではない部分で男の気持ちを確信している。
そして、自分にあの男を投影しているからこそ、あの子があいつを愛するようになればいいのにと淡い期待もしたはずだ。
今度はルークがため息を付く番だった。
ルークにもしも子どもがいたとしたら、親を困らせることばかりをしでかす子どもに、憤りや時に失望を感じながら、それでもそれを凌駕する愛情を感じるのに似ていると思ったかもしれない。
アッシュはルークよりも大人だ。ルークより世間と言うものを知っていて、合わせることも、取り繕うことも、清濁合わせ呑むこともきっと上手に出来る。
けれどその中に、ヴァンに連れられて屋敷を出たときからちっとも成長していない小さなアッシュがいて、あのころ欲しがったものを今も欲しいと泣いているのだ。
──愛されることを。
ルークは腰を浮かせて伸び上がり、秀でたアッシュの額にキスをした。
たじろぐアッシュの唇に、ルークが長いこと特別なキスだと思っていたものをちょんと落とす。
「ルーク……?」
「おれ、帰らねえぞ。ここでアッシュと暮らすから。もう決めたから」
そしてあんな男と自分は違うんだって、ちゃんと悟ればいい。
「……母上が納得されるもんか。お前がいない間の母上たちのこと、お前は知らねえから……」
押しやっていたカップをアッシュが引き寄せ、口に運ぶ。なぜ飲む気を失ったのか、このぶんだと失念しているだろう。
冷えているだろうし、淹れ直してやったほうがいいのかなとカップを掴むアッシュの指を見つめながら、ルークは口を開いた。
「すぐに納得してくれたよ。『父上と暮らしたい』って言ったら」
ほとんど飲まれることのなかったカップが、アッシュの手から滑り落ちた。