Close your eyes if you feel it 05

 焼き菓子や保存食ばかりを食べていたこの数日を含めても、二人で向かい合ってゆっくり暖かい食事を取るのは初めてのことだったし、ちょっと信じられないくらいアッシュと穏やかに会話が進むのが嬉しくて、ルークは子どものように話をあちこちに飛ばしながら、一生懸命に話し、体調の悪さを忘れてデザートまでたっぷり食べた上に、つい酒も過ごしてしまった。

 あんまり美味そうに、楽しそうに飲み食いしているので、アッシュもすっかりそのことを失念していて、気付いたときにはルークはすっかり出来上がってしまっていた。元々それほど弱くはないと見えて──中身がどれほど子供でも所詮身体はアッシュのレプリカなのだ──人事不省になるほどではなく、翌日まで残る心配もなさそうだった。多分に気が大きくなっているだけだろう。どんな形であれルークに触れていられればいいアッシュの、背負ってやると言う申し出に、ルークは全く抵抗する様子もなく、おとなしくおぶさった。意味が分かっているのかどうなのか、酔っぱらったルークがアッシュの背中で調子外れに例の歌を歌っているのに苦笑がもれる。

「それ、気に入ったのか?」
 笑い含みにルークが歌っている歌を指摘すると、むーともうーともつかない唸り声をもらし、アッシュの首筋にぴたりと頬をよせる。
「こーゆーこと」
「?」
「……旦那が浮気ものの奥さんにするようなこと」
「……ああ」
「お前もしたことある?」

 また、随分と直球で聞いてくるものだと、アッシュは無言で眉を顰めた。年を考えれば当たり前だろうと言いたいが、相手はキスさえまともにしたことのなかったルーク。ぐるりとこれまでの己の所業を思い返すと、全く汚れのないルークに正直に告白するのも後ろめたくて、アッシュは唸った。一瞬、どうごまかそうという姑息な考えが脳裏を過ったものの、結局、口から出たのは何の言い訳もない、やはり直球の一言。
「──ああ、ある」
 微かに、背中でルークが息を飲んだような気配がした。
「──いつ?」
「いつって」
「最初は?」
「……言いたくねえ」
 それは、生まれて初めて人を殺した直後だった。つまり、まだアッシュも子どもで、ルークが赤ん坊に毛の生えたもののようだった頃だ。別に後悔しているわけではない。酷い衝撃と混乱と恐怖、それに興奮に震えの止まらない身体には、当時の上官が判断したように女の肌が必要だったのだ。
 ──多分。

「特別なキスは?」
「特別なキス?」
「唇にするキスのこと。……誰とでもしていいわけじゃなくって、特別な人とだけするって、ガイが言ってた」
 ち、と舌打ちがもれる。あの童貞め、後で説明に困るような面倒な説明をしやがって──。確かにある意味間違ってはいないが、それは人それぞれだろう。娼婦でさえ、頑なにさせないものもいれば、てんで気にしない者もいる。別にしてもしなくても構わないのだが、ここはダメよと最初に釘を刺されると、ウゼエ女に当たっちまったと気分が萎えるのも確かだった。
「悪いが、ガイの言う特別なキスがどういうものかは俺には分からねえ。特別な人とするのが、特別なキスとやらに該当すると言われればそうなのかも知れねえが……。それなら、夕方お前としたようなの、お前の言う、普通じゃねえキスってやつだな、あれが必ずしも特別なキスとは言えねえぞ。さっきの歌の話になるが、あの女房にとって、結局特別なのはどっちだとお前は思った?」
 アッシュの質問は、子どものルークにとってはまだ難しいものだったかもしれないが、ルークはアッシュの背中で散々唸った後、「旦那かな……?」と答えた。
「その答えは結局女房にしか分からねえことだと思うが、仮に旦那とする。だがこの女房は、普通じゃねえキスを窓の外の男ともしているはずだ。その歌の旦那が浮気者の女房にするようなこともな。この二つは大概セットになってるもんだ。結局、どんなキスというより、誰とするかだな。特別な人とするなら、頬だろうが指先だろうが、それは多分特別なキスと言えんじゃねえか。──ああ、今気付いたが、そう考えれば俺にとって特別なキスというのは、お前が最初なのかもな」

 真剣に聞いているようなので、アッシュも出来るだけ分かりやすく答えてみたが、納得したのかどうなのか、首筋を翳めたルークの顔の動きは、頷きを示したように思う。

「アッシュは……おれのことは、特別の好き?」
「そうだ。だが、バチカルの父上と母上も……ナタリアもだな、俺にとっては特別の好きだ。お前とは意味が違うが」
「おれとは、ふつーじゃねーキスがしたい特別で、父上母上、ナタリアは違うんだな?」
「そうだな」
「さっき、おれとしたのがアッシュにとっては特別なキス?」
「そうだな。だが、お前にとっては違うかも知れねえ」
「普通じゃねーキスだから、特別なキスってわけじゃねーんだな?」
「だと俺は思うが」

 ふうん、というような微かな返事をして、ルークは押し黙った。アッシュもほっと息を吐く。「赤ちゃんは、コウノトリさんが運んでくるんですよ」的いい加減な性教育は、もう害悪だとアッシュは疲れ切って考えた。単にこれまで子どものルークが全く興味を持たなかったため、周囲が教える機会を逃したのかも知れないが……。あの様子を見る限り、精通もおそらく来ちゃいないんだろう。これから色々知らねばならないルークにとって、自分は教師として向いていないのは明らかだ。まだまだ子どもの彼に、愛と欲望と理性とは、切り離すことが出来るものだなどという情けない話はしたくない。

「歌の旦那が奥さんにするようなことも、おれにはしたい? 今、セットって言ったよな?」
 ──だがルークは考え込んでいただけで、興味を失ったわけではなかったらしく、ガイに丸投げしようと誓った直後に、無情にも無邪気な質問は再開された。
「言った。──ああ、してえな」
「他の人とは?」
「今はお前以外のやつとしてえとは思わねえ」
「おれだけ?」
「ああ」
「じゃあ、する?」
 思わずぷっとアッシュは吹き出した。背中の上で、ルークの身体が驚いたように跳ねる。このお子様はまた、唐突にナニを言い出すのか。
「興味があんのか?」
「うん」
 酔っているからなのか、全く意味が分かっていないからなのか、素直すぎる返答にどうしても口元が緩んだ。どうしてこうも可愛いことを言うのだろう。
「気持ちは分からんでもねえが、今はダメだな。その申し出は嬉しいが、取り敢えず聞かなかったことにしといてやるよ。──そうだな、興味じゃなく、他の誰でもなく、相手は俺がいいと思ったら……。そんな風に思うようだったらその時に言ってくれ」
「わかった」
 ルークは素直に頷いて、おぶわれたままの両足をぷらぷらさせながら、再び歌を歌い出す。相変わらず調子がズレて、へたくそな歌だった。




 ルークに好きだとは言ったが、返事を急ぐつもりはなかった。
 実を言えば、おそらく第二次性徴前のルークに、真っ先に意識をさせることで、他を少しでも牽制しておこうというあざとい手口に過ぎないのだ。
 なし崩しになっているが、アッシュはまだルークに謝罪をしていない。だから告白の答えを望む権利など、未だ、ない。
 だが、反面、自分が絶対に許されることもアッシュには分かっていた。ルークは全くこともなく、自分を許すだろう。これが反対の立場なら、自分がルークを許せたかどうか分からないのに、何故かルークのことだけは自分のこと以上に分かるのだ。

(俺は、まだ許されたいと思ってないのかもしれねえ)
 絶対に許されるはずの謝罪をする気になれないのは、己の罪を少しでも長く感じていたいからなのかも知れなかった。なぜなら、あの夢はもう、彼を断罪してはくれないから……。

「なあー、アッシュー」
「どうした」
「キスならする? いい?」
「……普通じゃねえやつか?」
「そう」
「……気に入ったのか」
「えっと……うん。おれ、あれ好きだ」
「分かった」
 アッシュは笑って、ごそごそ動くためにずり落ちそうになっているルークを揺すり上げた。

 ルークがこうまで自分に甘えてくれるのは、ほとんどすり込みと変わらないのだろう。彼に取っては突然三年後の世界に飛ばされたようなもので、心細いのだと思う。おそらく馴染むに連れて、元々気安い仲間たちの方へ、ルークの気持ちは近づいていくはずだ。バチカルへ帰ったルークが最終的にどういう選択をするにせよ、バチカルとダアトという距離の差では、自分たちは会うことすら稀になってくるのかも知れない。そうなってもルークは気にしやしないだろう。元々自分たちはそういう関係でしかなかったのだし。

(俺は……ちょっとキツいかも知れねえな)

 月を見上げて自嘲の笑みをこぼしたとき、背中から前に回されて首のところで交差しているルークの腕に、きゅっと、力が籠った。
「アッシュー」
「……どうした」
「少し、待ってくれよ」
「ルーク?」
 驚いて反射的に背後に向こうとしたアッシュの頭を、慌てたようにルークが掴んで前に向けた。──そんなことをせずとも顔など見えやしないのに。
「……おれ、本当の七歳児ほど、何にも分かってねーわけじゃねえ、よ? 知らないことは多いけど……。言っただろ、お前がおれを好きって言ってくれて、嬉しかったんだって……。ただ……おれ、お前が言うようにやっぱりまだまだガキで、見た目通りの年齢なら当然知ってたり、経験してたりすることも、分かってねーことが多いんだと思う。お前の気持ちはすごく嬉しいのに、怖いと思ったりもするんだよな。だから、時間が欲しいんだ。もしかしたら、お前が欲しい答えにはならねーかもしれねーけど。……その時は、勘弁してくれよな」
「……ルーク、」
 子どもだ子どもだと思っていたルークの、思っても見なかった言葉に、アッシュは絶句した。
 ルークは、人の気持ちに敏感だ。ひどい人生をよってたかって歩ませたというのに、何故こんなにも人に優しくなれるのだろう? 何故小さな憎しみにこだわり続けていた矮小な被験者と、全く違う道を選び取って来れたのだろう? 

 ルーク、本当は、お前は俺などより、よほど出来がいい。

 そう言ってやりたい気持ちはあるのだが、どう言葉を駆使しても、自分のこの心情をすべて過たず伝えることは出来ないような気もする。
 アッシュの代わりに死ぬため。
 ただ、それだけのために生み出されたルーク。ガイ以外の誰からもまともに向き合ってもらえず、期待されずに育ったルーク。誰もが、彼を利用することしか考えていなかった。その上、ヴァンからも、己の被験者からも、存在を否定され続け、自分の存在理由を本人が一番疑いながら、それを必死で探して走り続けた。胸の内に大きな罪と闇を抱えながら、人の苦しみを一緒に苦しみ、自分の苦しみには笑顔で立ち向かい。

 アクゼリュスを落とすことを強制されたルーク。
 ホドを落とすことを強制されたヴァンデスデルカ。

 共に己の意思を無視され、望まずに大量殺人者となったが、その後二人が進んだ道は、綺麗に左右に分たれた。

 負けた、と。

 こいつには勝てない、と。そう思うのに、胸を強く突き上げるのは誇らしさと喜び。尊敬の念。ルークのような人間を愛することが出来る以上、きっと、自分は、自分が思うよりましな人間だったのだと思えるほどに。

「……ありがとな」
「おおお、おれだって、ちゃんと考えてるっつーの!」
「他の誰のでもない、俺のレプリカとして生まれて来てくれて」

「…………っ、」
 背後で、ルークが息を飲む音がした。




 ──俺のレプリカとして、生まれて来てくれて、ありがとう──




 ルークのように、被験者の居場所を奪うために造られたレプリカではなかったとしても、ほとんどの被験者にとってレプリカが目障りな存在であることには変わりがないはず。『白薔薇と紅薔薇の庭』のような多少の例外があったとしても。
 だからきっと、被験者にそんな風に言われたことのあるレプリカはいないと思う。
 きっと、おれくらいしか、いないと思う……。

 じんわりとその言葉が沁みて行くにつれ、胸の内からどうしようもなく溢れそうになる気持ちを、大声で叫び出したいような喜びを、どうしていいか分からず、ルークは激しくなる鼓動と、込み上げる涙と、洩れそうになる嗚咽とを必死で隠しながら、アッシュに回した腕に、力を込めた。






2011.04.19