朝起きると、枕元に着替えが用意されていた。新品ではないが、どうみてもアッシュが着られるサイズではない。でもどこか見覚えがあるような気がして、ルークはきちんと畳まれていたそれを広げ、ひとしきり首をひねった。しばらくしてそれがなんなのか思い出すと、驚いてためつすがめつ眺め、やがてありがたく、その『お下がり』に袖を通した。
それはシュザンヌが自分には息子が二人いると知って以来、あれこれ作らせていたもののうちの一枚だった。バチカルでの対面の時にでも、持ち帰らせたのだろう。色やデザインが少しずつ違うが、並べてみれば「ほんとはお揃いにしたかったの」という注文者の意図が透けて見える、これとどこか似通った意匠の服をルークも持っていた。気に入っていたので旅の間も持ち歩き、良く着ていたのだが、あれはどこへやってしまっただろう。必要最低限の道具や衣類を残し、多くの荷物はアルビオールに積んだままになっていたはずだが、あの服をどちらの荷物に入れたか、たったこの間のことだというのに、ルークは憶えていなかった。もし持ち歩いていたのなら、それは、あの瓦礫と雑草の下で、人知れず朽ちてしまったのだろうか?
同じように旅暮らしを続け、同じようにエルドラントで荷物を失ったはずのアッシュの服が、今ここにあるという意味。
もう着られなくなってしまったにも関わらず、大切に仕舞われていたのであろうことに、アッシュの心が痛いほど感じられて、ルークは自分の服によく似ているが、わずかに違う袖や胸元の意匠をそっと撫でた。高価なものだから、という理由だけではなく、この服は徒や疎かには扱えない。
着替えを終えると、ベッドサイドの小さなテーブルの上に、水差しとサンドイッチが二つ、それから小さな革袋と手紙が置いてあるのが目に入った。サンドイッチを一目見た途端、きゅう、と自己主張を始め出す腹を、苦笑いして押さえる。最後に食べたのは、昨日の昼すぎに特務師団の控え室で出されたクッキー数枚。ルークは、夕べ早々に眠ってしまったせいで夕食を食べそびれたことに、今更のように気付いた。一体、何時間寝てしまったのだろう? ベッドで眠るのが久しぶりだったとはいえ、目が溶けるほど眠った気がする──悪夢も見ずに。寝過ぎのせいか、それとも枕が合わなかったのか、微かに頭の芯が重く、鈍く痛んでいた。
寝相の悪さにはね除けてしまったようだったが、きちんとブランケットをかけて寝ていたということは、おそらく昨夜、アッシュは約束通り迎えに来てくれたのだろう。
メモには、案の定、夕食時と深夜に二度様子を見に来たが、ルークが良く眠っていたため起こさなかったということ、翌朝は早いので会いに来られないということ、いくらか置いて行くので、今日一日はそれで必要なものを揃えたり、食事を取ったりして欲しいということが書いてあった。
その小さな革袋の中には、ちょっと驚くほどの額のガルド。 この一年間での旅の間に培われたルークの感覚では、それは六人と一匹のパーティーの食費一月分にも匹敵する額だったので、ルークは少し途方に暮れてしまった。だが、着替えはもしかしたらアッシュがまだ着られそうなお古を出してくれるかもしれないとしても、彼が用意してくれていた真新しい下着類は少し──ほんのちょっぴりだ!──ルークには腰回りが大きいように感じたため、やはり新しく用意する必要があった。
ルークはさんざん悩んで、ありがたく金を借りることにし、サンドイッチに手をつけた。冷えたら固くなるから肉を避けたのか、それともルークが真夜中に腹を空かして起き出すかも知れないから重いものを避けたのか、具材は蒸したサツマイモの薄切りと、甘めのスクランブルエッグにたっぷりマヨネーズを和えたもの、ぴりりとしたキンレンカという、極軽いものだった。
美味しいけれど、当然、ルークの腹には少し食べごたえがない。それをぺろりと食べてから、ルークは革袋を持ってケセドニア散策へ乗り出すことにした。
空を見上げると、そこは相変わらず砂煙で黄色く煙っていたが、高い土壁のせいか、あるいは街中至るところに植えられた背の高い植物のせいなのか、街の中は外に比べるといくぶん砂嵐もマシなようだ。
ルークは見覚えのあるもの、ないもの、すべてに目を輝かせながら、ケセドニアの街を一人、散策していた。
砂漠の街は昼夜の寒暖の差が激しい。日が昇ってしばらくすると、急に日差しが強くなり、気温は上昇する。
日避けの黒い布を頭から被るように巻いて陽炎の立つほど強い日差しを避け、冷たいシャーベットを一つ買って飲みながら、店の主人に「三年ぶりにケセドニアに来たけど、随分変わったな」と話しかけると、主人はこの三年で、世界で最も大きく変わったところがこのケセドニアよと自慢げに話し、ルークの知らないことを色々と教えてくれた。アッシュからでは聞けなかった、街の人間ならではの話をルークは興味深く聞いて、レプリカのことに話を向けてみると、主人はそれを知りたいなら、やっぱり劇場で「暗闇の夢」公演の芝居を見るべきだと熱心に勧め、次いで苦笑まじりに、港までの一番大きな通り沿いに半年前に出来たカフェが、街の名物の一つになりつつあると教えてくれた。なんでも、被験者とレプリカ、二人一組でないと雇ってもらえないカフェなのだそうで、話を聞いてルークもびっくりした。
この間まで、被験者とレプリカの関係は、険悪といっていいようなものだったが──いや、現実には三年も経っているのだ──きっと、レムの塔で約束した通り、みんな頑張ってくれていたのだろう。店の主人の言葉にも、レプリカに対する嫌悪感は含まれていないように、ルークには感じられた。
ルークはとりあえずその二カ所にも足を運ぶことに決めて、主人に礼を言って店を離れた。
目的地までの道すがら、衣類を買い足したり、調理場のあてもないのに市場を覗いてみたりして、あちこち首を突っ込んだ。何もかもが目新しいわけではないのだけど、考えてみれば、こんな風に時間に追われず──たまに一日空いたって、心の底ではみな、焦りを抱いていた──のんびり市場や店を素見して歩くなんてこと、少し前までは考えられなかった。
ルークの記憶にあるものより、ものの値段はあれこれ変動している。武器屋の前で、昔は異常なほど高価だったのに、今は随分値崩れしてしまった剣を見つけて、ルークは思わず釘付けになった。主人が危機感を抱くほど長い間、その剣の前で葛藤する。ソウルクラッシュや魔剣ネビリムほど素晴らしいものではないにしろ、ルークは今剣を持ってないのだし……。でもアッシュは、今のルークは頭と身体がうまく連動していない可能性があるから、また稽古を始めて、思い通りに身体を動かすことが出来るようになるまでは、おかしな事件に巻き込まれないためにも剣を持つなと言った。もっともな言い分かも知れないが、いつもあった背中の重みがないことは、ルークにとって、とても心細いことだ。
溜め息をついて店から出ると、ちょうど人の陰から出て来た人物と正面から視線があった。双方の目がみるみる大きくなる。
「坊や?! 生きてたのかい、あんた!」
知っているようで知らない、異世界で迷子になったような気分でいたルークは、アッシュ以外の知人に初めて出会い、信じられない思いと、嬉しさに、半ば飛びかかるようにその人に抱きついた。
「ノワール!!」
グレン 「待ってくれ、姉上! 二度も俺を置いて……逝かないでくれ……!」
レプリカ・マリオン 「グレン様。……もうご存知でいらっしゃるはず。私はただ のレプリカ、あなたの姉上などではありません」
グレン 「姉……マリオン!」
レプリカ・マリオン 「伯爵様。最後に名前を呼んで下さって、ありがとう……嬉 しい。私は、ずっとあなたをお慕いしていました……」
──金髪の女、ハラハラと乖離してゆく。金髪の男、光をかき集めるように抱きしめ、踞る。
グレン 「……マリオン。俺だって、君を愛していた……」
ルークは舞台正面の一階席、中央よりやや後ろの、かなり良い席に沈み込むように腰をかけ、両目と口で三つの円を形作っていた。
亡くなった姉のレプリカであったことから、街で人間に迫害されていたレプリカ・マリオンを保護することになった青年伯爵グレン。幼い頃、彼を守るために命を落とした姉のレプリカは、今はもう立派に成人して大人の男になってしまったグレン伯爵よりも遥かに幼いが、自分を保護し、教育を与えてくれた伯爵に真っ直ぐな気持ちを向けてくる。グレン伯爵はこれは姉マリオンとは別人だと自分にいい聞かせながらも、姉弟であるという記憶と自分が死なせたという罪悪感、それと現実を上手く切り離すことが出来ず、少しずつ育ってゆくレプリカ・マリオンへの愛情を自覚しながらも、それをどうしても少女に伝えることが出来ない。観ている方には二人の気持ちが痛いほどわかるのに……。観客をやきもきと苦しめながら、恋物語は、レプリカ・マリオンがグレン伯爵の制止を振り切って、障気を晴らすために一万人のレプリカとともに向かったレムの塔で最高潮の盛り上がりを見せ、乖離してしまったために悲恋に終わる。レプリカ・マリオンはとうとう、グレンの本当の気持ちを知ることなく、逝ってしまうのである。
ほとんどの座席が埋まった劇場内のあちこちから、人々のすすり泣きが聞こえてくる。
だが、ルークの頭にはほとんど内容など入っていなかった。あまりの衝撃に頭は真っ白、身体も、動くことさえ出来ずにいる。正直、グレンとレプリカ・マリオンの恋の行方など、どうでもいい。そんなことより、そんなことより……。
スポットライトはやがて、泣き崩れるガラン伯爵から抱き合うように倒れる二人の黒髪の青年に移る。よろよろと長髪の青年が起き上がり、短い髪の青年を抱き起こす。
シンダー 「ルクス、ルクス! 私のレプリカ、我が半身、お願いだ、目を 開けてくれ……!」
ルクス 「シンダー……君は無事か? 良かった……」
シンダー 「ああ、ルクス! お前こそ、無事で良かった……!」
ルクス 「……なぜ君は……こんな莫迦な真似を……。君にまで何かあったら、 ローレライの解放は誰がやるというんだ……」
シンダー 「ローレライなど知ったことか! 私にはお前の方が大切なんだ。 ……お前が逝ってしまったら、私はこの世で、ただ一人の化け物……。 ルクス、私を置いていかないでくれ、私を一人にしないでくれ。お前の
いない世界では、私は呼吸することすら難しいのだ……。怒らないでくれ、夢中 だったんだ。お前が逝ってしまうと思ったら、私は……」
──シンダー、ルクスの左手を大切そうに両手で包み、自分の頬に押し当てる。
ルクス 「シンダー……俺の被験者、ありがとう。でも俺だって君が大切なんだ。例え俺が消えてしまっても、君が生きていてくれさえすれば、俺の生きた証は残るよ。ここに、君の記憶の一つとして……」
シンダー 「記憶など! お前に二度と触れることが出来なくなっても、私一人に生きて行けと、お前は言うのか」
ルクス 「シンダー……」
もう耐えられない、とルークはふらふら立ち上がった。上演中に目の前を横切る迷惑な客に、観客が咎めるような視線を向ける。これ以上はないほどどんよりと沈んだ気分で、ルークはよろよろと劇場を出た。ルークのためにわざわざ席をあけてくれたノワールに、礼の一つも言わずに逃げ去るのは気が咎めたが、もうほんのちょっとでもここにいたら倒れてしまいそうだったのだ。
恥ずかしさのあまりか、顔が妙に上気している気がする。
もしも、万が一にも『ルクス』なる人物のモデルが自分だと気付かれたら。
他人の視線が気になって仕方なく、不自然に周囲に気を配りながら身を縮めてその場から離れようとする。
自分なりに必死に頑張ったのに、なぜ今になって、こんな辱めを受けなければならないのだろう? いや、そんな風に言うのは良くないのか? 劇団だって、悪意でやっているのではないはずだ。ノワールだって、レプリカへの人々の意識をかえる為に、役に立っている、と言っていた。
でも……。
ふらつく身体を支えるために、日干しレンガで作られた、黄色い土壁に手をついた。
教団の宿舎までは、それほど遠くはない。しっかりしろ、ルクス、いや、ルーク・フォン・ファブレ。
「やあっ!」
「とおっ!」
呼吸を整えて足を踏み出そうとした時、土壁の陰から手に手に棒切れを持った子どもたちが飛び出してきた。
声だけは勇ましく、棒切れを振り回しているのを見ると、どうやら剣劇遊びでもしているようだ。
自分がこのくらいの外見年齢であったとき、こんな風に遊べる友達はガイしかいなかった。剣術の稽古が始まる前に、白光騎士たちの訓練を覗き見ながらガイとした、たった二人の戦争ごっこを思い出す。
大勢の少年たちが口々に芝居じみた台詞を発しながら、稚拙な殺陣で棒切れを叩き合っている姿を、ルークはしばらくの間、荒い息を吐きながら羨ましく見つめていた。
「……?」
それは、シンダーとルクスなる、被験者とレプリカのコンビが、姫君を奴隷商人から救い出し、バッタバッタと悪漢を倒して行くという、痛快極まりない……はずの、ごっこ遊びだったようだ。「やーらーれーたー!」と叫んで次々にわざとらしく頽れる、やられ役の少年たちが地面に寝転んでしまうと、まるでアビスマンの決め台詞のような──二人揃えば無敵であるとか、揃っていれば悪を見逃さないとかいうアレ──聞いてしまってはなぜか居たたまれない気のする、こっぱずかしい口上の数々を、ヒーロー役の子らが朗々と述べるのを、ルークはただただ愕然と聞いていた。
「……」
あ、もう無理。
倒れる瞬間に「ルークさん?!」という声がかかり、腕が二本差し出されるのに縋りながら、ルークは意識を失った。