【03】
わたしはその日の朝まで、使用人たちの間で囁かれていた噂というものを耳にしたことがなかった。それはこれまでわたしの耳には決して入らないよう注意深くひっそりと流れていたのだろうが、その突然の出来事に彼らも気を取られ、いつもより不注意になっていたのだろう。
「……御子の存在をご存じなかった公爵様にとうとう素性を話したのではないかってもっぱらの噂だけど。だから奥様にお話されているんじゃないかしら」
「でも早朝に戻られてからずっとでしょう……少し長すぎやしない? 旦那様のようなご身分の方には……ほら、お子様もまだお一人なのだし、貴族の奥様方はそのくらいの覚悟なさってるはずよ」
「んー……だけど奥様の隠し子だと言ってる人もいるじゃない。そのことはどう思う? あたしも……ノエルさんは旦那様より奥様に似ていると思うわ。眉を抜いて整えて、化粧でもしたら──そうね、もう少し髪が伸びたら、丸きり奥様だと思わない?」
「そうなのよね……実はわたしも、どちらかといえば奥様似だと思ってるの。でも、奥様にも旦那様にも似ているなんて、そんなことってある? お二人の御子だというならわかるけれど」
「ご結婚前に生まれて、外聞が悪いから一旦御養子に出された、とか……」
「それならもうとっくにお迎えしておられるんじゃないかしら。ノエルさんがこのファブレ家の御嫡男ということになるわけでしょう?」
図書室へ向かう途中でそんな話をしている三人のメイドに行き会い、わたしはとっさに廊下の角に身を隠し、ドクドクとうるさく鳴っている心臓の音が聞こえてしまうのではと怯えながら話を盗み聞いた。このように品のない真似をしたのは、正真正銘、初めてのこと。聞くべきではないとわかってはいたが、「ノエル」という名が聞こえたとたん、わたしは動けなくなってしまったのだ。
わたしは休暇中のノエルがバチカルに戻って来ていることも、父上と二人で一晩を過ごしたらしいことも、明け方に帰って来ていたことすら知らなかった。ノエルが泣きはらしたような赤い目をしていたということも、帰宅してからまっすぐに母上の部屋に入り、三人で長い間籠っているということも、メイドたちの話を盗み聞いて知ったのだ。
普通なら二人が男色の関係にあるのではないかと怪しむところだが、容貌があまりに酷似していたため、全く別の想像がされているということも。
屋敷に戻っているというのに一度もわたしのところに顔を出さないノエルのことが気になって、わたしは彼女たちの話を聞かずにはいられなかった。
話を終えたメイドの一人がこちらに向かってくる気配を見せたため、わたしは部屋に駆け戻って気の鎮まらぬままうろうろと部屋中を歩きながら話を反芻した。
言われてみれば、確かにノエルは母上に似ているような気がする。……父上には……いや、似ている、のか? 若干似ているかもしれない、確かに。
──なぜ今まで気付かなかったんだろう?
初めて気付かされたこの事実に正面から向き合うと、メイドたちがなぜノエルが父上と母上、どちらにも似ているのかと不思議がる気持ちも良くわかる。どちらか片方ならば──父上はともかく、母上は有り得ないように思えるが──婚外子なのではと予想もたつが、双方に、と考えればまずありえないことだ。
確かに我がファブレ家と王家とは、代々婚姻関係にあり、複雑かつ強固にその血が結びついている。
だが、父上と母上の容貌に、似たところなど何一つない。髪と瞳の色くらいではないか。この二つが同じであれば、逆に少々似ていなくとも血縁関係を感じるところだが、母上と伯父上──陛下のそれを感じることはあっても、父上とではない。
ふと、父上と母上の仲睦まじい姿を見て嬉しそうにしていたノエルの顔を思い出し、ノエルがお二人の実子であるという可能性が決して有り得ないことではないのだと気付いた。
わたしは父上ばかりがノエルと楽しそうになさっているのをただ面白くないと思っていたけれど、もしもノエルがわたしと同様、父上と母上の子どもだったなら、ずっと離れて暮らしていた父上と剣を交わすことは嬉しいことだったのだろうか。両親の仲睦まじさに、自分もこの二人から生まれて来たのだと誇りや幸せを感じただろうか。どのような理由でお二人がノエルを手放されたにせよ──真実ノエルがお二人の子どもだったなら、という前提になるが──そのことをノエルが悲しんだり恨んだりしていないことは確かだ。
──いや、待て。
そうなると、もしやノエルはわたしの兄上ということになるのか……?
その思いつきで、わたしの心は半分浮き立ち……なぜか半分、じわりと不快なものが広がった。
ノエルが兄上だと言うなら。いつもどこか焦がれるように遠くの空を見上げているノエルが──ここではないどこかに帰りたがっているノエルが、どこにも行かずにこのうちに、わたしの傍にずっといてくれるだろうか。いや、いてくれなければ。ノエルが兄上だというなら、我がファブレ家の次の当主はわたしではなく、ノエルだということになる。兄上が当主になり、わたしはお傍でその補佐をする、それが正しいあり方だろう。わたしもずっと、一生、傍にいて、兄上を助け、お守りする。
……でも……。
しばらくぐるぐると考えていると、控えめなノックの音に思考を遮られた。
「おぼっちゃま、旦那様がお呼びでございます」
きっとノエルの話だ!
わたしがドアに飛びつくように開けると、その落ち着きのない動作が気に入らなかったのか、ラムダスが器用に片眉を上げた。わたしは肩を竦めた。
父上の執務室へ通されると、そこには思った通り父上、母上と、ノエルがいた。深く俯いたノエルの顔が見られないのを残念に思いながら、わたしは母上とノエルの向かいに座った。低いマホガニーのテーブルを隔てて、ノエルはひどく消沈したように背を丸めている。母上はそんなノエルの肩を抱くように撫でながらちらりとわたしをごらんになり、心配要りませんよというように微笑まれた。
「……ルーク。今度のベルケンド行きは中止だ」
「……え?」
ノエルに気を取られていたため、反応が一瞬遅れた。腕組みしたまま執務机のこちら側に凭れている父上は、これまで見たことがないほど、ひどく複雑そうな顔をしておられる。
「実験の協力は、もうせずとも良い。しばらくは家でおとなしく勉強でもしていなさい。それから、ノエルには協力してもらわなければならないことができたゆえ、少しの間お前の護衛から外して私付きとする。良いな?」
「少しの間というのは……」
「なに、ほんの二、三年のことだ」
二、三年?!
なにが「ほんの」だというのか、大人は誰もかれもが一年を簡単に語るが、わたしにとってそれは絶望的な長さだ。
「いやです! ノエルは俺の……っ、お、わたしの護衛です! わたしの……ものです……!」
泣きすぎて腫れ上がったぶさいくな顔を隠すように俯いていたノエルが、はっと顔を上げる。何か言いたげに父上の方を見つめ、唇を震わせたが、それより早く父上が困ったようにおっしゃった。
「これはお前のためなのだ、ルーク。そのくらいの間耐えぬか」
「嫌だ!!」わたしはこれまで一度もわがままというものを言ったことがない。これが初めての、そしてきっと最後のわがままだろう。父上と行かせたら、一年のほとんどをベルケンドで過ごすことになるじゃないか! 「ノエルは俺のだ、父上にだって渡すもんか!!」
「ルーク」
父上が少し厳しく、嗜めるようにわたしの名を口にされた。それで、どれほど反抗しても、決して父上が翻意されないであろうことを悟った。だがそれでも、わたしは首を縦に振ることが出来なかった。
「嫌だ。ノエルをもう一人にしたくない。俺はずっと傍にいる……」
怒りのあまり、声も、身体も、震えた。
父上と、ノエルをずっと撫でていた母上が驚いたようにわたしを見つめる。二人は同時にノエルを見、顔を見合わせた。
ノエルも、目を見開いていた。もっとも、目蓋はぽってりと腫れ上がって到底そうは見えなかったけれども。
「ルーク……」
母上が苦笑され、ノエルの注意を引くように肩を少し揺さぶり、再びノエルの肩を撫で始める。
執務机に凭れていた父上は、困ったような、怒ったような顔で拳を顎に当て、何か考え込みながらわたしを見ている。わたしも、負けじと睨み返した。
ふ……っと、父上から視線の圧力が消えた。
「ちちうえ……っ?!」
驚くべきことが起こった。父上が大股にわたしの傍に来られると、わたしのことをひょいとソファから抱き上げたのだ。
「──まだ、軽いな……」
「おっ、お放し下さい!」
わたしは混乱しながらじたばた暴れ、父上の肩を押した。ノエルが見ている。ノエルの前で小さな子どものように抱き上げられたくなんかない。
なのに父上はぎゅうぎゅうとわたしを抱いて、隠すように肩口に顔を埋めた。
「これほど小さかったのか……私の息子は……」
「……」
苦しそうなその呻きを聞き、わたしは動きを止めた。かあっと顔が熱くなったから、もしかしたら血が上って真っ赤になっているのかもしれない。
思えば、こんな風に父上に抱きしめられたことなど、一度もなかった。
父上は、大きくて、母上より温かくて、母上とは違う匂いがする。わたし一人抱き上げても、ちっとも重そうじゃない。
ようすのおかしい父上になんだか胸がぎゅうっとなって、それから急に恥ずかしくなって、わたしはノエルから顔を隠すようにに父上の肩にぎゅっとしがみついた。
「ルーク、聞きなさい。小さなお前に酷なことを言うが、実はお前には大禍の預言が詠まれている」
──大禍の預言?
「お前には禍でしかないそれが、同時に我が国の繁栄を約束する。だから私はそれを避けられぬことと諦めていた。我が子に良からぬ預言と知っていながら、どうすることも出来ぬ情けない父親だ。お前に合わせる顔がない……ずっとそう思っていた。だが、ノエルがそれを避けるための道を拓いてくれる。私は、これからその預言に逆らう道をゆく。お前をこうやって、ずっと我が手に抱くために」
「ち……父上……?」
わたしは顔を上げて、父上の顔を見つめた。父上がわたしとまっすぐ視線を合わせて下さるなんて……これまでそんなことがあっただろうか?
わたしは居たたまれなくなり、再び父上から視線を逸らした。父上はわたしがまだ怒っていると思われたのか、赤ん坊をあやすように私を揺らし、背を撫でてくださった。まだくっきりと浮いた背骨を確かめるように、何度も。
わたしはずっと父上には愛されていないと思っていた。いや、むしろ疎まれているとすら思っていた。
貴族は誰しも愛する人と添えるわけじゃない。父上と母上はそれでも仲良く過ごしておられるほうだが、わたしには跡継ぎとしての役目しか期待されていないのだと思っていた。だがそれで構わない。わたしは将来ファブレという巨大な門閥を継ぐものとして、十分大切にされている。それでいいのだと思っていたんだ。
「ずっと、というわけではない。今は納得ができぬだろうが、とりあえず、十の誕生日までは耐えなさい。そのあとは状況次第ということになろうが……。私はもう諦めぬと決めた。お前を失わぬために全力で戦う。それにはノエルが必要なのだ。……よいな、ルーク。なにもかもが終われば、またお前の傍にノエルを戻そう。その時は、二度と引き離しはせぬ。──もう二度と、だ」
「ち──旦那様!」その言葉に、ノエルが抗議するような声を上げた。「おれは……!」
「ノエル、お前もだ。何があろうと辞職は認めぬぞ。逃げるなら、ファブレより追っ手がかかるものと覚悟するのだな」
辞職。
なんとなく、そうじゃないかと思っていたが、思いのほかそれはがつんとした衝撃だった。やはりノエルはいつまでもわたしといてくれるつもりはなかったのだ。だってノエルはわたしを見ながら、いつだって別の誰かの姿を探してる。本当はその誰かの元へ飛んで行きたい、そんな目をしてる。
「……ノエルはわたしの兄上じゃないのか? なのに出て行こうとするのか?」
「なにを言う」父上が驚いたようにわたしの背を軽く叩いた。「どこからそんなことを思いついたのだ」
「みんな言ってます! ノエルは父上と母上に似ているって、お二人の子どもかも知れないって。それならわたしの兄上ではありませんか」
「う……む……」父上は低く唸り、大きなため息をついて母上を振り向き、苦笑した。「だ、そうだが。……いっそそうするか?」
「あら。それも素敵ですわね。でも……」母上はノエルの肩をぎゅっと抱き寄せ、ちらりとわたしをご覧になってくすくすと笑われた。「……やめておかれたほうがよろしいわ。後で恨まれることになるかもしれませんし」
父上はややあってそうだなと頷き、ぎゅっと抱いていたわたしを少しだけ放したと思うとくるりと回して片腕で抱え直し、楽しげに笑われた。「ルーク、お前はもう少し小さいままでいるがいい。そうすれば、ノエルもおいそれとお前から逃げ出したりはせぬはずだ」
思わず落ちた肩を、父上の大きな手が撫でてくれた。落ち込んだわたしを慰めて下さったのだろうか。
母上がして下さるようなことを、父上というものは普通しないのだと思っていた。わたしはもう赤ん坊ではないのだから、こんなことをして欲しいと思うはずがないし、思ったこともない。それにすごく恥ずかしい。小さい子にでもなったみたいな気分だ。
でも初めてこんなふうに抱き上げられて、撫でてもらい、わたしは本当はずっとそうして欲しいと思っていたことに気付いた。
「ノエル、午後になったら我々と登城する。シュザンヌは衣装を整えてやってくれ」
二人は同時にはいと返事をしたが、母上の声は少しだけはしゃいでいるような気がする。
「ルーク、お前は昼食をいただきなさい。ノエル、バチカルにいる間は、ルークの食事をこれまで通り任せてよいか」
「……はい」
ノエルは俯いたまま頷いた。
「……わたしが大きくなったら、ノエルはどこかに行ってしまうのか? ここを辞めるのか?」
目の前にはノエルの作った昼食がある。もう何度も強請り、作ってもらったチキンソテーは胸肉の一番良いところで、わたしの大好きなものだ。ノエルはきっと、わたしを喜ばせるため今日の献立にこれを選んでくれたのだろうが、心は浮き立たず、食欲もまるでわかなかった。
初めて見たときには、料理人自慢のじっくり煮込んだトマトソースを借りたのかと思ったのに、思いのほか酸味がなくて甘いことにびっくりした。粗く挽いた黒胡椒がその甘さをぴりっと引き締めている。ノエルが使っているのはケチャップという、ごく普通に売られている安いソースらしいのだが、当家には常備されていなかったらしく、もちろんわたしはノエルが来るまで知らなかった。このチキンソテーは細く裂かれてサンドイッチにもなる。ノエルのサンドイッチはいつでもパンより具が厚いので食べごたえがあり、稽古の後のお茶の時間に出てくるのがわたしは楽しみだった。
「わたしがずっと小さいままでいたら、ノエルはずっとここにいるのか……?」
「ばーか、お前の父上は、お前との関係をもう一度一からやり直したいと思ってらっしゃるんだよ。あれはそういう意味だ」ノエルはそう言って苦笑いし、わたしの頭をくしゃりと撫でた。「だからお前はゆっくり大人になればいいんじゃねーの」
「……」
わたしは香ばしい焦げ目の付いた肉をゆっくり一切れ切り取り、ソースを絡めて口に入れた。何度食べても柔らかくておいしい。ノエルは「しょせん庶民の味」などと笑うが、どれもわたしの舌に合わせたほんのり甘い味付けで、ノエルがなかなか食の進まなかったわたしのことをあれこれ気遣い、考えて作ってくれていることがわかる。それに好きなものや嫌いなものがびっくりするほど被っているから、わたしの嫌いなものを出さない。例えばにんじんとか。でもその代わりに紫蘇の葉で作ったソースをパスタや茹でた野菜にたっぷり使ったり、海藻のサラダを作ったりする。身体に必要な栄養を、何も嫌いなもので摂んなくてもいいさ、って言う。でもにんじんだって使わないわけじゃない。ノエルの作るドレッシングはアンチョビの風味が強くてにんじんの味がわからないし、にんじん色のケーキだって甘くてほわほわでおいしかった。どの昼食も、おやつも、ノエルの気持ちがいっぱい詰まってて、わたしはいつでも食べ過ぎるんだ。
「泣くなよ……」
ノエルの困ったような声がして、わたしはカトラリーを落とした。がしゃんと品のない音が立って、控えていたラムダスの眉が上がったのが見えた。
わたしは椅子から滑り降りて、ノエルにぱふりと抱きついた。
「……ルーク」
「……どこへも行くな。わたしから離れることは許さない」
「……ルーク、おれは」
「わたしが子どもでなければいいのに! 早く大人になれたらいいのに……っ!」
ノエルが寂しがらないように包み込める広い胸と、どこにも行けないよう抱いて繋ぎ止めることのできる長い腕が欲しい。どこにも行く気にならないように上手く口説ける声が欲しい。
でもノエルが去ってしまうなら、いつまでも小さくて構わない。ずっとこのままで構わないんだ!
わたしはノエルのお腹にぎゅうぎゅう顔を押し付けて涙を吸わせながら力一杯しがみついた。
「ノエルは父上と何を話したんだ?! みんな、わたしには何も話してくれない。わたしが子どもだから……。大禍の預言というのは何なんだ? 急にベルケンドに行かなくても良くなったわけは? 父上はなぜ急にわたしを顧みる気になったんだ?」
「……ルー、」
「アッシュというのは誰だ? そいつのためにお前はここを去るのか?」
アッシュ、という名のところで、ノエルの身体が一瞬びくりと強ばった。「どうしてお前がその名前を……」
「お前は時々その名を呟く。わたしを見て……。わたしはそいつに似ているのか? お前は、わたしよりそいつのほうが大事なのか……?」
ノエルはわたしに覆いかぶさるようにかがんで、わたしを抱きしめた。
「バカ言うなよ、おれにはお前が何より大事だ。……ルーク。あの日会ったのがお前でなかったらおれは……こんなところで雇われてなんか、いなかったよ」
「……お前は嘘つきだ」
しがみついたノエルの身体が一瞬だけ強ばって、すぐに弛緩した。ふっと吐かれた小さな吐息が、わたしの髪を揺らす。