【2】
「相手が兄弟からレプリカに変わったところで、変態度は同じだと思うんですがねえ。まあ、そこら辺には触れないでおきましょうか、彼が本心ではルークに優しくしたい、大切にしたいと思っていたとしたら、さすがの私もあまりの不憫さに笑、失礼、涙が出ますから。──一つ言っておきましょう。自分のことや知人のこと、周囲を取り巻く状況、そういったものを何日も忘れ去って思い出しもしない、そんな記憶喪失ありませんよ。女性を庇って頭部を打った、そのあたりのことだけ記憶が抜け落ちているというならなるほど、納得もします。ですがあなたの今の状況、いえ症状といいましょうか、普通はあり得ません」
ジェイドが胡散臭い笑顔を隠そうともせずにそんなことを言うのを、ルーク含め全員が唖然と見つめる。
「俺が、嘘をついているというのか?」
激しやすい性格の彼が、嘘をついていると疑われて激怒しないはずがない。
そう思い、それぞれが複雑な表情でアッシュを窺ったが、予想に反して彼は怒るどころか不思議そうな顔でジェイドを見つめていた。
「そうではありません。……いえ、憶測は止めましょう。ですがおそらく、この本来あり得ない記憶喪失の原因が私の考え通りなら、あなたの深層意識が抱える問題、ということです。そう簡単に記憶は戻らないと思っていい」
「かなり納得するのが嫌なんだがなあ。何か俺は、旦那の憶測とやらが分かったような気がする。まさかアッシュが……こいつも色々と悩んでたんだな」
「完全同位体同士だから、こういうことが起こった、ということですの?」
ナタリアの問いに、ガイはこめかみのあたりをぽりぽり掻いて、ちらりとルークの様子を窺った。ついさっきまでこの世の終わりみたいな顔色をしていたのに、今はほんのりと薄紅に染まった顔を俯けて、何か考え込んでいるようだった。
「いや。……そうだな、旦那に同調するわけじゃないが、やっぱり確かなことじゃない。それに、他人が口にして良いことでもないような気がする」
「……全然、わかんないけど」
「そうだな、旦那はともかく……。俺だから推測が出来た、そういうことだ。旦那、この件はこれ以上話しても、今の時点では何の解決もしない。──そうだな?」
「そうですね。今日はもうお開きにしましょうか。明日は私は出かけますので、みなさんはスパにでも言ってリフレッシュしていて下さい。……心身ともにね」
ガイの声を皮切りに、珍しくジェイドが疲れた声を上げると、皆本当は早くこの場を去りたかったのだと言わんばかりにそそくさと立ち上がり、三々五々に散っていった。ナタリアはさすがに少し気にするそぶりを見せたものの、レプリカルークが屋敷に戻されたときと同じくらいの別人ぶりに、話しかけるのは思いとどまったようだった。
ガイや女性陣がミュウを連れて去って行く後ろ姿を、 ルークがぼんやり見送っているのを、アッシュはほんの少し目を眇めて見つめた。
「アッシュ、部屋はもう取ってありますか?」
「ノワールが手配してくれた」
ジェイドが聞くのに、鍵を手の中でくるくる回して見せる。
「あの……アッシュ」そこへこれまでほとんど口を開かなかったルークが声をかけてきた。
「なんだ」
話しかけると「なんだ」と答えるのはいつものアッシュと同じだが、顔つきは煩わしそうに顰められた普段のアッシュとは違い、優しかったので、ルークは勇気を出して一歩を踏み出してみることにした。「少し、話せねーか? ……いやならいいけど……」
「いや、構わねえ。お前なら大歓迎だ」
「ルーク、よしておきなさい」
アッシュから承諾を得たのに、思わぬ所から反対の声を上げられて、ルークはとまどった。「ジェイド? おれ、アッシュと喧嘩しないで話出来る機会そんなにないし、良い機会だから少し話してみたいんだ。屋敷のこととか……おれの……レプリカのこととか……。記憶のないアッシュが、どんな風に考えるのか、知りたいんだ」
「……気持ちは分からなくもないですが、記憶が戻った時に傷つくのはあなたですよ?」
「それでも……うん、いいんだ」
ジェイドは溜め息をついた。ルークが、アッシュときちんと話してみたいと切望しているのはジェイドも気付いていたし、記憶がないとはいえ、自分の憶測通りであるなら、記憶喪失前後のアッシュの思考にそれほど変化はないはずだ。だとすれば、アッシュが誰にも気付かれぬほど深く沈めていた真の気持ちを知るのに、ある意味良い機会なのかも知れない。
「分かりました。気をつけるんですよ」
男は皆、オオカミといいますから。
とは、ジェイドは結局言わずに置いた。奥手なルークがそれで何かを悟るとは、とても思えなかったから。
翌朝、朝食を求めて一人、また一人と二階のレストランに現れた。今日のような予定が無い日には、申し合わせて食事を取ったりはしないのだが、比較的朝は規則正しい彼らは空腹になる時間も似ているので、なんとなく同じ時簡に顔を合わせてしまうことになるのだ。
「ルークは相変わらず、か」
ただルークだけは、朝食を食べるよりは寝ていたいというので、休日の昼前に起きてくることは珍しい。
「夕べはアッシュと話をすると言ってましたからね。良い子の彼にしては夜更かしもしたはずですよ」
「ええ〜大丈夫なんですかぁ〜? なんかアイツ、信用置けなそうなカンジでしたけど」
「まあ、アニス。アッシュのことなら、彼は紳士ですのよ」
「……ナタリア、私、あなたは絶対に分かっていないと思うわ」
「何をですの??」
「みゅう」
ティアの膝の上でパンを千切ってもらっていたミュウが小さく鳴声を上げた。
噂の当人が、寝起きの黒豹のようにのっそりとここに入ってくるのが見えたからだった。
その姿を目にした途端、ジェイドが天井を仰いで、ぴしゃりと額を打った。
「旦那?」
「アッシュ、こちらですわ!」
ナタリアの声に、気付いたアッシュがこちらにやって来て、円形のテーブルの空いた席に座った。
いつもは立てられた前髪が、今朝初めて、降ろされたままになっていた。そうすると、確かに完全同位体、ルークとは鏡の裏表のように酷似している。だが、容姿の区別が付き難くなると、両者を完全に分けるのが容姿ではなく、雰囲気なのだとはっきりと知らしめた。
アッシュが纏う、従え、命じる事に慣れた王者の風格は、ルークが決定的に持たないものだ。この違いがこうまであからさまである限り、二人を良く知らない者にも見分けをつけるのがそう難しいとは思えなかった。
休日と聞いたからかいつもの詠師服ではなく、取り敢えず羽織って来たといういい加減な着方で、私服らしい白のドレスシャツを着ている。
カフスも留めず、タイも巻かれず、あまつさえ上の釦が外れっぱなしと言うこの男らしからぬ気の抜けた姿ではあったのだが、どこかけだるげで、頽廃的な雰囲気を纏っているのが妙に男臭い色気があって、知らず知らずのうちに女性三人組は頬を染めて目を逸らしてしまった。
「……奥手なあの子の被験者が、まさかこれほどまでに手が早いとは、ね。読み違えました」
「ああ?」長い前髪の奥で目を眇めてジェイドを見やり、疲れを取ろうというように目蓋を揉む。
やって来た給仕にコーヒーを頼み、色々尋ねながら部屋に持って行って食べられそうなものを追加する。チップを弾いて給仕が受け取るまでの流れが、何もかもスマートで憎たらしいくらい絵になっていた。
「ア、アッシュ。ルークは、ルークはどうしてる」
ジェイドの台詞になにか感じたか、ガイがうろたえて聞くのに、
「寝ている」と欠伸を噛み殺しながら答える。
「そ、そうか。あいつ朝弱いからな……」
「明け方寝たばかりなんだ。……今日は寝かしといても問題ないんだろう?」
「ええ、色々と話せたのね、良かった。ルークはずっとあなたと、きちんと落ち着いて話したいと思っていたの」
「話って、んなわけあるか。処女だろお前。男が惚れた奴と二人っきりで朝まで同じ部屋にいたら、やるこたあセ「ああああああああ!! 子供の前ですから!!」」
涙目になったガイが必死で遮るものの、この場で一番子供であるはずのアニスは耳年増で、ある意味ナタリアよりも大人だったので、すぐにソレと悟ってしまった。ベーコンを切っていたナイフとフォークが、がしゃんと耳障りな音を立てて皿に落ちる。
「る、ルーク。……食べられちゃった、の……?」
「思った以上に上玉だった。感度は最高、肌もすべすべ、素直で飲み込みも早え。元は俺の生体情報から作られたって昨日言ってたが、眉唾くせえな」
朝っぱらから爛れた台詞を吐いているにも関わらず、カップを持ち上げて伏し目がちにコーヒーを啜る仕草はどこまでも貴族的で、優雅だ。
──いえ、本当なんですよ。
とはダレも突っ込まなかった。アッシュの意見は全員の意見でもあったからだ。
「出会って直後とは、いやはや少し早すぎる気がしませんか?」
「三ヶ月は健全なお付き合いをしなさいってか? 年寄りは皆そう言うな」
「そこまで極端なことを言うつもりはありませんが……しかし」
ジェイドとアッシュが会話を交わしている間に、衝撃から立ち直ったらしいティアが握った拳をわなわなと震わせて立ち上がった。
「あ、あ、あ、あなたって人は……! あなたって人は、人としても男性としても最低よ!」
「ティ、ティア? 何をおっしゃっているんですの?」
純粋培養の姫君だけが、重たい空気は感じるものの理由が分からず、おろおろとティアとアッシュを見比べる。
「最低? なんでだ。俺は誤解の余地もないくらいはっきり、あいつとヤリてえって言ったぜ? そういう男の部屋に入るなら、同意したんだと思うのが普通だろ」
その台詞に、男性陣は全員、うっ……と明らかに怯む様子をみせた。
「……確かにそうでした。失礼、あなたの言う通りだ」
「くそ、返す言葉もない……」
「『そんなつもりじゃなかった』は、確かに通らないですの……」
「サ、サイテー!! 男ってサイテー!!」
「信じられない! そういうのを盗人猛々しいというんだわ!! ルークがあなたを信用していたから部屋に行ったとは思わないの?!」
「……皆どうなさったの? ルークになにかあったんですの?」
相変わらず一人蚊帳の外にいるナタリアに、怒り狂ってヤケになったアニスが軽蔑も露にアッシュを睨みつけながら、歯に絹着せず直裁な説明をすると、王女はようやく事の次第を飲み込んで両手で口元を隠して顔を赤らめた。
「それでは、やはりアッシュは以前からルークを愛してらしたんですのね? 記憶を失っているのに、愛する人のことだけは忘れないでいたなんて、なんてロマンチックなんでしょう……。あの冷たい言葉の数々は照れ隠しでいらしたのね」
「残念ですがナタリア姫。男というものは愛がなくてもその行為が行え「旦那!!」」
「いや、ナタリアの言う通りだと思うんだが。……お前はあいつの婚約者と昨日聞いたばかりなんだが、そんなわけで、悪いな」
「いえ、いいんですのよ。愛し合う恋人たちの前には、如何なる障害も許されないのですわ。……ということは合意の上ですのね?」
「最初はびっくりして涙目で逃げ回っていたがな。──あいつ、本当に素直で可愛いな。丸め込、分かってもらうのは骨だったが」
「でしたら、皆さんは何を問題にしてらっしゃるんですの?」
「今、今コイツ、丸め込んだって言おうとしたよね?! 皆聞いたよね?!」
「それを合意とは言わないわ!」
「だ、そうだ。──ったく他人の恋路に口を出すと馬に蹴られるって言うのを知らねえのか」
ちょうど給仕が、大皿に盛ったチキンサンドを運んで来たのを区切りに、アッシュは立ち上がった。
「さて、俺の方は一睡もしてねえんだ。失礼して一眠りさせてもらう」
「……アッシュ。明日はやることがたくさんありますので、ルークを使い物にならなくするのは自粛して下さい」
「──っは。んなヘマしねえよ」
眠そうに細めた目を獰猛に光らせて、ナタリアとミュウを除いて、疲れ切った人々にひらひらと手を振ると、入って来たときと同じように獣はのっそりと出て行ってしまった。
「いやあ〜、記憶が戻るのが楽しみですねえ」
「……あいつ、憤死するのと違うか。……こう言っちゃなんだが、あいつがルーク、つまり戦利品の見せびらかしをするようなタイプには思えないぜ」
「いえいえ、彼のあれは計算でしょう。私たちを牽制したかったのだと思いますよ?」
「なるほど! さすがは、アッシュ。万事に抜かりのない方なんですのね」
「ボク、今のアッシュさん好きですの! ご主人様を大切にしてくれますの〜」
「……皆……ルークの身が心配じゃないのかしら……(私、どうしたというの? もう今までのように、ミュウが可愛いと思えない……)」
「サイテー! 男ってほんっとサイテー!」
「時間が残されていないということか……。『無意識』の焦りが今回の事態を招いた、ありそうなことだ」
口々に好きなことをしゃべっている仲間たちの間で、ジェイドの独り言は誰の耳に届くこともなく、宙に消えた。
あまり長く眠っていたわけではなかったが、額に、唇に、甘く柔らかに触れる感触が心地よく、ルークはゆっくりと目を覚ました。
「ア……シュ……?」
声がひどく掠れていて、二、三度空咳を繰り返す。ほぼ一晩中泣かされていたせいで、目蓋も重たく、頭も少し痛んでいた。
「起こして悪いな。チキンサンドを貰って来たが、少し食えそうか? ここのは美味いって夕べ言ってたろ。水は?」
「ン……いま、いい。水、欲しい」
「水な。どら……」
起きようと力なくもがいているルークの背を支えて上体を起こしてやり、真っ赤に熟れた唇に、冷たい水の満たされたグラスを当ててやる。存在を主張しすぎない喉仏が上下に動くのが妙に色っぽいと、アッシュは目を細めた。
飲み込みきれずに顎を伝う水を舌で舐めとり、そのまま深く口づけると、一晩かけて教え込んだ成果か、素直に一生懸命、反応を返してくる。
そのまま欲望に濡れた、とろんとした瞳で見つめられ、アッシュは思わず苦笑した。
「火がついちまったか? ご期待に添えられず悪いが、さすがの俺も、もうちょっと回復しねえと無理みてえだ。悪いが、一眠りさせてくれ。──そっち、詰められるか」
「ン」
再びとろとろとまどろみながら、ルークは頑是無い子供のような仕草で頷き、もそもそと動いて場所を空けた──つもりになっていた。
ああ、やっぱりこいつは可愛いなあと顔を崩して、横抱きにするように位置をずらし、隣に滑り込むと、アッシュは手足全部でルークを抱きくるみ、柔らかい紅緋の髪に顔を埋めた。
実際、自己否定の固まりのようなルークに、彼を強く求める人間がいるのだと分からせるのは容易ではなかった。
自分がなぜここまで必死になるのかも思い出せないまま、アッシュはルークの話をじっと聞いてやり、時に先を促し、時に慰めながらすべて吐き出させた。聞いていて胸の痛くなる自虐、腹が立つほど頑なな自己否定、この一見穏やかな少年の内側に冷えて凝った、そんな闇の部分すらすべて愛おしいと思いながら。
宥めすかして、最後は半ば脅迫まがいの泣き落としという情けない手段まで使って、やっとルークがこの腕の中に落ちて来たときの「間に合った」という深い安堵感。続いて歓喜と幸福感が波のように押し寄せた。強烈に感じていたはずの欲望がもたげたのは、本当に最後だった。
『俺』がこんなにも愛おしく、大切なものを嫌って、憎んでいたとルークは言う。夕べその話をした時の、今にも涙がこぼれ落ちそうな悲しげな顔を見るに嘘をついているのではないと分かったが、アッシュは実際にルークを手に入れてみて、記憶をなくす前の自分が何を考えていたのか、その一端が少しは分かるような気がした。
『俺』は「素のままの自分」以外の何を失おうと、彼を得るためならば構わないと思っていたのかも知れない。それが、彼をここまで傷つけてきた、その仕打ちの数々をすべて忘れ去るという卑怯極まりない手段であっても。
「……回復したら、また可愛がってやるよ」
貝殻みたいな白い耳元にささやきかけると、半ば意識がないくせにぽっ、と頬と耳の先を染め、きゅうっとしがみついてくる。
可愛い、と思うと体の中心にぎゅうっと血が集まる馴染みの感覚が襲い、アッシュはちょっと自分に呆れて天井を見上げた。
この調子で一緒にいたんじゃ、どうにも長生きは出来なそうだ。まさか、ローレライ解放という役目が終わるまでは自粛していたとか? ──いや、それなら嫌ってるとか憎まれてるとか思わせたままにしておく意味が分からないし、危険極まりない。ルークを欲しがるものに横からかっさらわれる可能性だってあるのだ。
現にアッシュの本能、というべき部分が、あのメロンのような胸の女を警戒しろと告げている。アレを武器に迫られたら、純情なルークなどひとたまりもなかったろう。
じきに十八になろうという年齢なのに、ルークは男どころか女すら……それどころか自慰の経験すらなかったようで、アッシュはひどく驚いたのだが、真っ白な新雪に足跡をつけるように、まっさらなからだを拓いて行く行為は、彼の情欲を激しく煽り、征服欲をも十分に満足させた。
前の俺が何を考えていたのかなんて、もうどうでもいいか。
俺は俺で、思うように好きなようにやるさ、とアッシュは思い、目を閉じた。