鮮血はチョコレート色の夢を視るか 02

 アッシュは混乱して、机の上の包みを見つめた。
 手に持った手紙とそれを何度も見比べ、信じられぬと言わんばかりにぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。

 ケテルブルクにいる時には定宿にしている部屋で、彼は地図を眺めて考え事をしていた。そのとき控えめなノックがされ、宿の者が一通の手紙を持って来た。「漆黒の翼」に調査依頼を出していたものの返答だと分かっていたので、受け取って中に目を通し、すぐに暖炉に焼べた。
 調査の結果を踏まえて改めて地図に向かうと、地図の上に、寸前まで無かったはずの焦げ茶色のひも付き紙袋が置いてあったというわけだ。

 この前を離れて手紙を受け取るまでに十秒もかかっていない。読み終わって暖炉に放り込むまでを加算しても二分ほど。しかも戸口はアッシュ自身が塞いでいた。
 部屋は二階で窓には鍵。
 この状態で寸前まで無かった紙袋をアッシュに気付かれることなく、地図の上に置けるものが居ようはずもなかった。

 紙袋の中をおそるおそる覗き込んでみると十五センチ四方、厚さが三センチくらいの箱が入っている。光沢のある青藍の包み紙に、濃い焦げ茶のリボンと細い金の紐が重ねてかけられており、取り出してみると、結び目の下に小さな封筒が付けられていた。

『アッシュへ』

 宛名は自分になっている。誤配達でないことだけは確かなようだが……。
 自分宛ならば中を見ることに遠慮はあるまいということで封を切ったアッシュは、結果ますます混乱することになった。
 なんだこの手紙は。
 ちっとも理解出来ない。いや、読める文字で書いてあるのは確かだから意味が分からないわけではない。ないのだが。
『アッシュ』と『ルーク』。
 この名が揃っていては同名の人間への誤配達という可能性もまずないだろう。
 頭をかき回しながら何度読み返しても内容が変わるはずもなく、試しに暖炉の炎で炙ってみさえもしたが手紙はなんらかの科学変化を起こすわけでなし、そのままに手の中にあった。
 手紙の前半も理解出来ないが、問題は後半だ。『おれにも被験者の恋人が』からの条は何度読み返しても『被験者の恋人』がアッシュ、つまり自分であると示唆している。
 そして、自分とレプリカはそんな関係にはない。
 するとこれは何かの嫌がらせか。──などと考えても、どうやって数分のうちに部屋に侵入してこれを置けたのかと考えると本当にわけがわからない。
 ただ一つ彼にあったのは、これを危険物と見なして捨ててはならない、という勘だ。
 試しにルークの内に入り込んで居場所を確かめてみる。突然の頭痛にすぐに気付かれたが、意外に近い所にいるようだったので、動かずにそこにいるように言うと、手紙は荷物の一番下に仕舞い込み、青い包みだけを元の紙袋に入れた。それだけを持つと、外衣を羽織って部屋を後にした。
 ──近いとはいえ当然、二分やそこらで往復出来るような距離ではない。

 ルークはなだらかな斜面を切り崩すように切り開かれた、大きな街の最上段に位置する住宅地の、一番奥まった場所にいた。
 そこはほんのちょっとだけ開けた共有スペースになっていて、今はもう使われていない古い井戸があった。ちょうど日が射す方角が開けていて日当たりは悪くなく、まだ寒い時期のケテルブルクでも比較的暖かだった。且つては井戸を使う人々でにぎわっていたのだろうが、今は人影もなく、一人でぼんやりするには格好の場所かも知れなかった。
 こんな住人しか知らないような場所で、しかもわざわざ路地からは見えない井戸の裏側にもたれて隠れているルークに眉を顰めて、アッシュは大股に近寄り彼を見下ろした。
「アッシュ」
 ルークがふわりと笑った。己のレプリカに一度も優しくしたことなどないというのに、彼はいつでもアッシュに会うと嬉しそうに笑む。それがまたアッシュの苛立ちを煽るとも知らず。
「なんだってこんなところに隠れてやがる。仲間はどうした」
 つけつけとしたアッシュの問いに、ルークは悲しげに顔を曇らせた。「隠れてんだ。多分、ガイは譜業の店かなにかにいると思うけど、ジェイドはどこに避難したのか分からない」
「避難だと?」
ルークは頷いて、深い深い溜め息を吐いた。
「今日、バレンタインデーだとかいう……知ってた? あ、そう。それでナタリアが張り切ってチョコを作ってるんだ、宿の厨房を強引に借りてさ、ティアと。……アニスが用事でいないのにさ」
「…………」
 指摘したら全力で否定するであろうが、ルークはアッシュの瞳が一度だけ左右に泳ぐのを見た。キノコロードで余程の目に遭ったのだろう。さすがのアッシュもナタリアのアレだけはフォローのしようがないらしい。
「大丈夫。おれたちが泊まってる宿とここ、多分端と端くらい離れてる。近くにはいねーよ。ナタリア、アッシュの分も作って、会ったら渡すって言ってたけど……」
「……お前がこれまでに寄越したどの情報よりも有益な情報だな」
「あっひでえ」とルークは苦笑した。「ま、おれもこんなところに隠れてる限りお前のことは言えないんだけどさ……」
 所在なく膝を抱えるルークに溜め息をついて、アッシュは人一人分だけ離れた隣にどさりと腰を下ろした。ルークに向かって、下げて来た紙袋を突き出した。
「やる」
「……なに?」
「知らん。貰った」
「チョコレート?」
「かもな」
「じゃ、おれが貰ったら悪いだろ」
 困惑しているルークの顔は、その紙袋と中身について、何かを知っているようには到底見えなかった。
「いや、構わねえだろ」
(寄越したのは『ルーク』で、自分の分でもある、だそうだからな)
 とアッシュは皮肉気に考えた。
 ルークは一瞬だけ逡巡したようだったが、すぐにパリパリと包みを開けた。
「うわー……すげえな!」
 感嘆の声に釣られて箱を覗くと、黒っぽい紙箱の中は九つに仕切られ、それぞれに形も色も違うチョコレートが入っていた。
「俺、こんな綺麗なチョコレート初めて見た。食べるのがなんか勿体ねーくらい」嬉しげに言ってから「ほんとに貰っていいのかな」と聞いて来た。
「くどい」きっぱりと断言して、アッシュは一つを摘むとルークの口の中に放り込んだ。
「!! ……っ?!」
 反射的に口を押さえてから、ルークは驚愕に目を見開いた。
「うめえ……!! なんだこれ?! これ、ほんとにチョコレート?! いやこれ違うよチョコレートじゃねー、別の何かだよ、なんだこれ」
 偏食が多いと聞くルークのあまりの感激っぷりに何を大げさな、とアッシュは箱に顔を寄せ、馥郁たるその香りを嗅いで首を傾げた。
「別の香りもするようだが、チョコレートだな」
「アッシュも食ってみろよ!」
「俺はいい。お前が食えばいい。そもそも……っ!」
『お前』が寄越したのだ、とまで言うことが出来ず、 アッシュは思わず口を噤んだ。ルークの氷のように冷たい指先が、がっとアッシュの口を開いて中に一粒のチョコレートを放り込んだからである。
「美味いだろ?」
 乱暴な真似をしたわりには恐る恐るアッシュを窺うルークに、アッシュは驚きに忙しなく瞬きをして「……美味い」と唸った。ほろ苦いチョコレートの甘さと、オレンジの甘酸っぱさが口の中で渾然一体となって広がり、さっと溶けて消えてゆき、すぐに次の一粒が食べたくなる、そんな後を引く美味さだった。
 このチョコレートを食べて、美味しくないと意地を張れる者は元々チョコレートが嫌いな者だけではないだろうか。
 アッシュも例外ではなく、彼にしては珍しく目を丸くして素直に感想を述べたものだから、ルークは本当に嬉しそうに破顔した。
「だろ?!」
 ルークがまた一つチョコレートを口に入れて「あれっ?」という声を出した。「なんかさっきのと味が違う?」
「違うのは形だけじゃねえようだな」
「さっきお前が食べたの、何の味?」
「オレンジだったな」
「それも美味そうだなー」
 残るチョコレートは六つ。二人で分けては三つ。そのすべてが違う味だとすれば……。
「だから、全部お前が食っていい」
 何を憂いているのか丸分かりなルークの表情を見て、アッシュが呆れたように首を振ったが、ルークは真剣に箱を覗き込んでいた。その子供のような横顔が、自分に似ているどころか外見相応の青年のものにすら見えず、思わず見入ってしまったことに気付いたアッシュは、わざとらしい咳払いをしてそれをごまかした。
「お前、どのくらいここにいるんだ」
「うん? んー……どんくらいだろ??」
「分かんねえくらいいるのかよ」
「昼前からずっといる」
「……っ、この屑!! 三時間は優に経ってんじゃねえか! 馬鹿かお前は?!」
「ナタリアのチョコを食べるくらいなら凍えた方がマシな気持ち、どーせお前にゃわかんねーよ。せめて凍死なら苦しまずに死ねるからな」
「う……」
 ふてくされながらも嫌味なルークに、アッシュもひるんだ。会わないように逃げ回ればいいだけのアッシュと比べ、今日逃げたって、結局ルークたちは食べるハメになるのだろうが──死霊使いは逃げ切りそうだ──悪あがきせずにはいられない、それだけの破壊力を持っているのだ、あの姫の料理は。
 ナタリアには数々の美点があり、それを賞賛するのを惜しむ気持ちはアッシュにはないが、アレだけは……。
「仕方ねえ、俺の泊まってる部屋に来るか? 何もねえが茶ぐらいは出してやる」
「えっ」
 弾かれたようにルークが顔を上げた。「お前の部屋? いいの?」
「ここより暖かいことだけは確かだからな。お前、冷え過ぎだ」
アッシュの視線が手に向いているのを見て、ルークは慌てて手を後ろに隠したのだが、そんな可愛らしい仕草を見て、綻びそうになる口元を引き締めるのに、アッシュは少々意思の力を必要としたのだった。

「あ、あ、あの時のチョコレート!?」
仰天してアッシュの腕の中で体を強ばらせたルークの背を軽く撫でて解いてやりながら、「憶えてなかったのか?」とアッシュは少々呆れた声を出した。
「あの後残り全部半分づつ食ったろ。美味い美味いと感動してやがったくせに」
「貰った、って言ってたじゃねーか!」
「嘘じゃねえだろ? お前の手紙付きで俺の泊まってた部屋に置いてあったんだ」
「まじか……? え、あ、だって、あの頃おれ達今みたいな関係じゃなかったろ? おかしいと思わなかったのか?」
「思ったが、気分は悪くなかったな」
「それで部屋に入れてくれたわけ?」
「単純にお前が冷えきってたのが気になったのもあるが」
「寒い中ずっと外にいたからなー。──おれとガイは結局食わされたから、無駄なあがきだったんだけどさ。それより、手紙の内容なんて、良く憶えてたな。……おれだってまともに憶えちゃいねーのに」
「何度も読み返したからな」

 あの頃は誰が何の為に寄越したのか、状況的には何処から部屋に置いていかれたのかも謎だった手紙とチョコレートだった。だが、あの手紙はしばしば孤独なアッシュの心を慰めてくれた。少しづつ素直に優しく出来るようになったのは、いつかこの手紙の『ルーク』と『アッシュ』のようになれたらいいのにと思ったりしたせいだったのかも知れない。それに慣れれば、元々直情型のアッシュには、おかしな駆け引きなどせず心のままに振る舞う方が楽だった。
 アッシュはルークといて安らぎを得たいのだから、照れからくる変な意地を張っておかしな空気にいたたまれなくなったりするのも正直面倒臭い。

「エルドラント突入前までは確かに荷物の中に入ってたんだが……。戻って来たときには荷物ごと見失ってた」
「そっか」ルークが呟き、アッシュの胸元にぐりぐりと額を押し付けた。「手紙、ずっと持っててくれたんだな」
 それは彼が照れているときに良くやる仕草で、それをされるとアッシュの胸にはいつも愛おしさが込み上げる。
「ルーク」
「あのとき、お前が部屋に入れてくれたのが……絶対見せてくれない私生活っていうの? 見せてくれたのがすげえ嬉しくて、なにかヘマしてそんな機会潰したらいやだって緊張もしてて、ほんとはチョコレートの味なんて良く分かんなかったんだ」
「ルーク?」
「今思えば、自覚してはなかったけど……。あの頃からお前のこと、すごく意識してたんだと思う」
「俺もだ」
「え?」
「俺も、あの頃にはもうお前のことが好きだった。自覚もしていたが、行動には移せなかった。あの手紙は、あの頃の俺の背中を押してくれたんだよ」
 そう言ってアッシュは、ルークが思わず赤面してしまうほど優しい目でルークの顔を覗き込み、そっと唇を啄んだ。
「ア、アッシュ、」
 段々と深くなって行くキスに戦いて、耳の付け根まで赤く染めたルークがアッシュを押しやったが、本気でされてはいない抵抗は、押しやるどころか服の中にまで侵入してくる手をやすやすと許してしまう。
「お前、俺が食いそびれたチョコの代わり、な」
「チョ、チョコの代わり、って、アッシュ! 誰か来ちまう! 今日、入れ替わり立ち代わり誰か様子を見に来てんだ、よ」
「誰も来ねえよ」
 ゆっくりとルークの体を倒して顔中にキスの雨を降らせながらアッシュは喉の奥でくぐもった笑い声を立てた。
「なんで断言出来るんだよ?!」
「なんででも、出来るんだよ」

 可愛いルーク。
 自分たちの関係が誰にもバレていないと思い込んでいる愚かで愛しいルーク。

 ことが終わったあとの、汗と体液で汚れたシーツを、一体誰が回収して洗濯をしていると思うのか。
 シーツの交換はメイドの仕事だが、いつの頃からか、ルークとアッシュ双方のクローゼットにまっさらな替えのシーツが常備されるようになったのは何故なのか。
 おそらくメイド達は皆知っているだろう。父は分からないが、母にも気付かれているかも知れないとアッシュは思っていた。
 ルークの様子を皆気にしてはいただろうが、アッシュがルークの部屋を訪ねた時点で離れに近づく使用人はいないはずだし、いたとしても『気配』を感じた時点で引き返すだろう。

 毎度毎度、ちょっと困ったような顔を真っ赤に染めて、意味の無い抵抗をせずにはいられない、どこかもの馴れない初心なルークの服を剥ぎながら、アッシュは四年前の自分にチョコレートを送ってくれた何ものかに感謝の呟きをもらし、真っ白な肌に唇を寄せた。


 取り敢えずバレンタイン用SS。(2011.02.06)