鮮血はチョコレート色の夢を視るか 01

 アッシュが二週間ぶりに屋敷に戻ると、いつもであれば、子犬のようにまろび出てきてまつわりつくルークの出迎えがなかった。
 代わりに、珍しくシュザンヌが浮かない顔をして広い玄関ホールに立っていた。
「アッシュ、お帰りなさい。さぞお疲れでしょう。お帰りは明日だと聞いていたのに、早くて助かったわ」
「母上? 何かあったのですか?」
 近寄って来たメイドに、羽織っていた外套を渡しながら問うと、シュザンヌは困ったような笑みを浮かべる。
 気付けばそこにいるメイド達や白光騎士、ラムダスまでが何やら困惑顔だ。
「……っ?! ルークに、何か」
「ああ、いえ、そうではないのよ」
 表情に乏しい息子の眉間に皺が寄ったのを見て、シュザンヌが慌てたようにそれを否定した。
「ひどく落ち込んでベッドに潜り込んでしまって。わたくしが何度か声はかけたのですが、出て来ないのです。夕食も食べていませんし……。アッシュ。あの子を慰めることが出来るのは、貴方しかいないでしょう? お疲れでしょうが、少し様子を見てあげてくれませんか?」
「分かりました。……ですが、一体何があったのです? 確かにあいつは些細なことですぐに落ち込みはしますが、母上が声をかけても出て来ないとは尋常ではない」
「ええ」シュザンヌは深く頷いてアッシュの懸念を肯定し、声を潜めてその重大な事実を述べた。

「チョコレートが消えてしまったのです」

「…………済みません母上。……何が消えたとおっしゃいました?」
 聞き違いかと思ったアッシュは真面目に問うたのだが、それにシュザンヌも極めて真剣に答えを返した。
「チョコレートです」
 アッシュは公爵子息の帰りをずらりと並んで迎える使用人達の顔をひとしきり眺めまわし、そのどれもが沈痛と困惑、といった表情を浮かべているのを見て首をかしげた。
「あいつの部屋に行く前に詳しいことをお聞かせ下さいますか?」

「貴方は、チョコレートが消えたくらいで何を騒いでいるのかとお思いでしょうが」
 シュザンヌは自室で、手ずから息子にお茶を淹れてやりながら嘆息した。
「ことによると、お屋敷に何者かが侵入した可能性も無いわけではないのです」
「……ファブレ公爵家に忍び込み、菓子だけ盗んでいく賊……ですか」
「貴方にそう言われると、身も蓋もありませんが」
 小さなサンドイッチや焼き菓子の盛られた皿をアッシュに薦めながら、シュザンヌは苦笑した。
「もちろんわたくしも本気でそんなことを言っているわけではないのですけれど……。そういうことにでもしなければ、説明の付けようがないのです」
 お茶を淹れ終わると、シュザンヌは極めて優雅な仕草でアッシュの正面に腰を下ろし、紙のように薄いティーカップに口を付け、少し考えてから話し始めた。

 ──今日はバレンタインですから、ルークがたくさんチョコレートを買って来たのですが……貴方も、あの子がしばらくユリアシティで行われるレプリカ保護のための会議に出かけていたのはご存知ですね?
 その時、今日に合わせて、三日前に開店するというチョコレート専門店の試食品を口にしたあの子はあんまりにも美味しかったので、皆にも食べさせたい、と帰国を遅らせて開店日にお店に寄ってくれたのですが、噂が噂を呼んで行列がそれはすごいことになってしまっていて、購買数が制限されていたそうなのです。
 あの子は六回もその行列に並び直したと言っていました。それでやっとお屋敷のもの全員に一粒づつ行き渡る数が買えたのですね。……ええ、それは美味しかったですよ、ちょっとこれがチョコレートだというなら、今までチョコレートだと思っていたものは一体なんだったのか、思うくらいです。
 でもルークは皆と一緒には食べなかったの。貴方の分は別に一箱取ってあるから一緒に食べると言って。口に入れた時に貴方がどんなに驚くかと、とても楽しみにしていたのです。
 お天気が良かったので、あの子はお茶をお庭の四阿に運ばせたそうなのですが、そこで貴方へのお手紙を書いていたそうです。メイドの一人が支度をしているのだけれど、そのとき、チョコレートの包みの入った紙袋を見ているの。ルークが手紙を書き終わって、包みのリボンの下に差し入れるのもね。
 お庭のあちこちで巡回していた白光騎士達も数人、あの子が紙袋を持って走って中庭に入り、離れに戻ろうとしているのも見ています。
 でも、あの子が急に足下に下りて来た小鳥に驚いてバランスを崩してしまって。そのときバランスを取る為に振り回した手から紙袋を放り投げてしまったようなのです。
 ええ、結局転びはしなかったのだけど、その時にはもうチョコレートの袋が消えてしまっていたということなのです──。

 シュザンヌの話を聞き終えて、アッシュは首を傾げた。
「その場に落ちていなかったのですか?」
「ええ、もちろん、総出で探しましたけど……。あの中庭ですよ? 見晴らしは良いのですし、どんなに勢い良く飛んで行ったとしてもお屋敷を飛び越すほどでは。それに、一人だけおかしなことをいう騎士がいるのです」

──まるで私とルークさまの間に、見えない壁が半分だけあるという具合に、すーっと消えていったように見えたのです。

「……すーっと消えて」
「そう、おかしなお話でしょう? でも、本当にそうとしか思えないほどの消え方なのですよ。お屋敷に侵入者があったとしても、あのほんの数秒でチョコレートを盗み、侵入したことすら分からないように脱出することなど出来ようはずもありません。だからそれは絶対に中庭にあるはずなのに、どうしても見付からないの。それでルークは大層がっかりしてしまったのです。何か他のものを用意したらとも言ってみたのですけれど……」
「ちょっとお待ち下さい」アッシュはこめかみに指を当て、何かを思い出そうとする仕草をした。「似たような話に憶えがあるような……」
「まあ、そうなの? 思い出して下さるといいのだけれど。……本当に一体、何処に消えてしまったのか……」

チョコレートは何処に消えたのか?
(チョコレートは何処からきたのか?)

「あ」
 シュザンヌの台詞を聞いて、アッシュの脳裏に対句のようにその言葉が浮かんで来た。
「母上、そのチョコレートはどんなものでしたか? その、形や味のことですが」
「そうね、箱のなかに仕切りがあって、一粒づつ入っているの。形は丸いものや四角いもの、ココアがまぶしてあるものや軽くお塩が振ってあるものもあったわね。中には色々なクリームや果物のペーストのようなものが入っていて、口に入れた途端にほろっと崩れるのです」
「もしや、外装は光沢のある濃い青の包装紙に、店の名前が白抜きで入った焦げ茶と金のリボンがかかってはいませんでしたか」
「まあ」シュザンヌが目を見開いてアッシュを見つめた。「何故貴方がご存知なの? ユリアシティでこの間開店したばかりと言っていたのに」
「もう一つ。あいつは結婚式がどうのという話をしていましたか? 花束を持って帰ってきたとか」
 シュザンヌは戸惑い顔で頷いた。「結婚式に飛び入り参加してお花を貰ったと嬉しそうに話していましたが……貴方のお部屋にルークが飾ったはずですよ」
「これですっきりしました」アッシュは母親の言葉に、珍しく声を上げて笑った。
「母上。俺はそのチョコレートの行方を、満更知らなくもないようです」
 アッシュは立ち上がり、シュザンヌの側に行くと軽くキスをしてから駆け出していった。

 ノックをしても当然のように返事が無いので、勝手知ったる他人の部屋とばかりにアッシュはルークの部屋に足を踏み入れた。ベッドの中心がこんもりと盛り上がっているのを見て、片眉を上げる。
「ルーク」
 呼びかけにも返答はないが、びくりと掛け布団が動いたので、起きてはいるようだ。アッシュはベッドの側へ近寄ると、盛り上がりの真横に腰を下ろして頭らしきところをとんとんと叩いた。
「いつまで拗ねてやがる」
 ベッドの奥からくぐもった唸り声が聞こえた。
「ルーク。二週間ぶりに帰宅した彼氏にお帰りの一言もねえのか?」
 笑い含みのアッシュの言葉に、慌てたようにルークが這い出した。それを力づくで引き起こして抱きしめる。いつから籠っていたのか、もの凄い寝癖がついているのが更に笑いを誘った。
「無くなったチョコレートの話を母上から聞いたが」
 アッシュが言うと、ルークは身の置き所がないと言わんばかりに、もそもそと首を振りながら肩口から胸の方へ体を縮めるような仕草をした。そんなことをしてもアッシュから姿が隠せるわけでもないのに。
「今日、バレンタインなのに。おれ、代わりのチョコレート用意してないんだ。あれを、お前に食べさせたかったんだ。すっげえ美味いんだよ、食べたらどんなにびっくりするかって……」
「しただろう?」
「えっ?」
「お前が俺の口に一粒放り込んだ。俺が驚いたのを見て、お前は笑ったはずだ。──憶えてねえか?」
「なに……」

「『アッシュ、お仕事お疲れ様!
 お前のことだから、仕事は問題なくいったんだろうけど、無理してないかが ちょっと心配だったかな。
 おれの方も問題なく終わったよ。ついでにグランコクマにも足を伸ばして来た。
 会議で被験者とレプリカの、初めての結婚式があるってネフリーさんから聞いて、嬉しくて見に行ってしまったんだ。正体不明のレプリカの俺の飛び入り参加も大歓迎してくれた。二人の家族や友達がいっぱい出席してて、皆嬉しそうに笑ってた。被験者の花嫁さんはすげー綺麗だったけど、レプリカの花婿さんもなかなかのものだったんだぜ! おれにも被験者の恋人がいるって知ったら、花嫁さんがブーケをくれた。彼女に、ってさ。だから彼女じゃねーけどお前の部屋に飾っといた。もう見たかな。

 明日になったらお前に会えるんだよな。二週間ぶりだ。二人で帰還して来てから、こんなに離れてたことってなかったからすげー寂しかった。早く会いたい。いっぱい話したいよ。

 愛するアッシュへ
 ルークより

 そうそう、おれが寝てるからって一人で食べたら駄目だぞ。おれの分でもあるんだからな』」

「……?! な、な、なんで」
「さすがに一言一句間違いないっていう自信はねえんだが……。大体合ってるか?」
「た、ぶん、一言一句間違ってない……と思う。ごめん、おれもう憶えてねー。でも、なんでアッシュが? 誰かがアッシュに届けたのか?」
「ああ、多分」とアッシュは笑い、寝癖のついた頭をくしゃりと撫でて言った。

「だが、受け取ったのは四年も前の俺だ」