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「そ、そうかも知れないけど」さっきは明らかにそれを期待していたくせに、そう言われてルークはその場にいるものたちが目を見はるほど狼狽した様子を見せた。「でもあの……」
「気になるの?」
「! そ、んなこと……ね、ねーし!」
自分でもどうしたいのかわからないまま激しく首を振るルークの気持ちがわかったのか、ルシファが苦笑してルークの耳元に唇を寄せた。
「私はお前でもあるから、お前が今誰を想っているのか知ってるよ。彼女の前でアッシュと結婚、なんて言われても受け入れられるわけないよね。アッシュに言ったように、この世界は私が辿ってきた道筋にない世界だ。だからお前の行く末は私とは違うのかも……。もしかしたら、お前は性別を変えることもなく、ずっと彼女の傍らにいられるのかも知れない。それならそれでいい。アッシュの気持ちはアッシュのもので、お前がそれを気にして人生を変えることはないと思うよ。アッシュのことは放っておきな」
「え、う、うん。でも……」
ルークの視線がちらりとナタリアに向くのに気付いて、ルシファは苦笑を深めた。
ルークはこのころティアが好きだった──といってもそれはいかなる欲も含まない、好意そのものといった純粋な気持ちだ。今はまだ、アッシュがルークに抱く気持ちと同じものとは言えない。ルークにとっては未知の感情、それを自分に向けているのがアッシュということに、怖れを抱きもするし、好奇心がないわけでもない。羞恥にも似たわずらわしさを感じると同時に、胸には喜びもこみ上げる。──だからこそ、アッシュを想い続けているナタリアに悪いと思うのだろう。
「ナタリアは王女だし、未来では女王でもある。だけど、超一流のスナイパーでもあるんだ。ナタリアに限って、獲物──いや、標的の撃ち漏らしは有り得ない。だから、ナタリアのことは気にしなくていい。原因を作ったのは確かに私かも知れないけど、ナタリアの標的は変わる。あの並々ならぬ狩りへの情熱を見て……ナタリアが本気で獲物を狩りに、じゃない、恋をしたらどうなるか、全員が嫌と言うほど思い知らされたんだ。……アッシュは怯えていたよ」
ナタリアが驚いて、猫のようにつり目がちの目をぱちぱちさせるのに、アニスが肩をすくめた。
「なんか……ナタリアの結婚にまつわるドタバタってのを早くみたくなってきちゃったなぁ」
「アニス、好奇心は猫を殺す」ルシファはものすごく真剣な顔をぎらっとアニスに向けたあと、ルークを促すように頷いた。
「気になるなら話してくればいい。今なら二人きりじゃないし、怖くないでしょ。──って、アッシュは確かに好きな子と二人でいればむらっとする普通の男の子だけど、嫌がるのをどうこうするようなろくでなしじゃないし。ちゃんと正面から向き合って話してみたいとは思ってたじゃん、私たち。今ならいろいろ暴露されちゃってるから、案外簡単に本音を吐くかもしれないよ」
それを聞いて、ルークは意を決したように勢い良く食堂を飛び出していった。ルシファはその後ろ姿を見守り、やれやれと肩をすくめる。ルークがいなくなったとたん、ルシファも話の詳細を聞きたくてそわそわしている女性陣に引きずられるようにして食堂を出て行った。
「彼女はああ言いましたけど、結局アッシュ落ちで決まりそうですねえ」
「まだわからないだろ! 勝負はこれからさ」
何と言っても跡取り問題の切実なガイが首を振る。そこには自分がモテる方なのだという仄かな自信も垣間見えた。
「そう言えば、跡取り問題に切実な御仁は他にもおわしましたね」ふと思いついたようにジェイドが手を顎に当てて何やら考えを巡らし始めた。「あの方もルークならば面白がって了承しそうな気がします。……国内の令嬢のどなたよりも、よほど釣り合いが取れますし」
「おいおいおいおい勘弁してくれよ旦那! 俺は多分ルークしかダメだが、陛下のは単に我が侭で、相手はいくらでも選べるはずだろ!」
「……ふむ。ですがガルディオス家とマルクト皇家の存続では比べ物になりませんし」
「旦那!!」
食事を楽しむものでまだまだごった返している食堂の中に、ガイの情けない悲鳴がひっそりと響く。
ドアの外で何者かの気配が動き、アッシュはぼんやりと目を開けた。元を探ればそれは己のレプリカに似た、どこか優しい馴染んだ気配だ。ルークとナイル少年が眠るベッドの枕元で、眠たげにミュウが頭をもたげたが、寝ているようにと手で合図を送るとまた丸まってしまった。警戒の必要は、やはりないらしい。
腕の中に収まって眠っていた小さな少女を起こさないようにそっと立ち上がり、ドアを開けた。
「ちょっと様子を見に来ただけなんだけど……起きてたんだ」
鍵穴に鍵を差し込もうとしたポーズのまま、ルシファがきょとんと問いかける。
「いや、今起きた。──交替するか?」
「えっ?」
「ルークが中で寝ている」
「あ、あは」ルシファは苦笑し、「うーん、じゃそうしようかな? その前に良かったら、お茶一杯だけ付き合わない?」
その言葉にアッシュは片眉を上げたが、すぐに頷いて音も無く外へ滑り出た。
「……お前は、俺の同位体じゃねえのか?」
歩き出してすぐの問いかけに、ルシファがうん、と頷く。「これだけ変わればね。回線も、超振動ももう使えない。不便はないけど……。でもアッシュは、私の気配……っていうの? そういうのがわかるって言ってるよ。なんとなくだけど、いる方向とか。まだ完全同位体だったころから、私からは回線も繋げなかったし、ましてやどんなにぼんやりでもお前の位置がわかるなんて、そんなことはなかったから。残念だけどアッシュの感じているその感覚がどんな感じのものなのか、私にはわからなくて。お前もやっぱりわかる?」
「あのく……ルークのことならはっきりわかる。お前のことは……ああ、そうだな、もう気配、としか言えねえが、そういうものがなんとなくわかる。だからドアを開けた」
これほどに姿かたちが変わっても、元は己から分たれたものだからか、その「気配」は自分に馴染み、ひどく安心させるものでもあったから。
食堂でティーセットと湯を借りてから、ルークとルシファが休むはずだった部屋に落ち着いた。
「ルークと何か話したの?」
「何も」
「何も?」
「ガキと三人で話していただけだ」
「ふうん? ルークはお前と話したくて行ったのに」
「あれもガキと同じだ。途中で寝ちまった。お前は?」
ベッドへ腰掛けたアッシュにカップを渡し、ルシファはその向かいに座った。「この年頃のティアたちとメイクや美容の話とか……好みの男の子の話とかね。出来るって思わなかったな。……なんだか若返った気分になっちゃった。すごく楽しかったよ、ありがとう」
「いや。たいしたことじゃねえし、良かったな」
アッシュはアッシュで、ナイル少年の話から色々な情報を得ていた。べルケンドで初めて会った時から、ルシファの様子で夫婦仲が良いのであろうことは察していたが、ナイルの口から楽しそうに語られる微笑ましいエピソードの数々にはルークも緊張を解いて楽しげに笑っていたものだ。
少年の語る未来に『ルーク叔父さん』は登場しない。だが、アッシュとルークは生き生きと語られる『母上』こそがルークであることを知っていた。複雑な気分でないはずがないが、ルークの表情を見るかぎり、その未来は決して聞いていて不愉快なものではなかったようだ。
「今日、あーもうそろそろ昨日になるのかな、みんなと話してさ、ちょっと思ったんだけど。こんなことが私の過去にもあったなら、姿を変えて帰って来たとき、迎えに来てくれたのはお前だけじゃなかったかも知れない。そしたら……私はあんな風に逃げ隠れすることもなくて、もしかしたらガイか、ジェイドと愛情を育むことになってたかも知れない。それはそれで、私は幸せだったのかも。──けど、そしたら、ナイルにもウィスにも会えなかった」
「……」
「さっきも言ったけど、もしかしたらお前は、ルークを手に入れるのに苦労することになるのかも知れない。それが面倒くさくなるかもしれないし……他に好きな人が出来ちゃったりするかも。けど……」ルシファはなんども唇を舐め、結局閉じた。「いや……いいんだ。私がお願いするようなことじゃなかったな。でも、一つだけ。私は……前にも言ったけど、今すごく幸せなんだ。これ以上の幸せはないって思うくらい。……アッシュを愛してる。それだけ、知っておいて」
淹れたての紅茶をまだ熱いうちに飲み干せる時間の間だけ、穏やかで心地よい沈黙が続いた。アッシュは、身体の芯まで凍り付くような極寒の場所から温かい室内に入ったばかりの人間のように、どこかほっと脱力したような顔をしている。
一杯の紅茶を飲み終えると、カップをサイドテーブルに置いて、ルシファが身を乗り出してアッシュに口づけた。「もう戻るね」
「──引く気はねえよ。安心して待ってろ」お返しというわけではないが、アッシュがルシファの項に手を伸ばし、軽く引き寄せると、ルシファは素直に唇を寄せて来る。無遠慮に舌を入れたりもせず、数度軽くついばむようなキスをして、アッシュはルシファを離した。
「……今、すごくしたい気分なんだけど、アッシュはルークに悪いって思うんだよね」
「……お前は未来の俺に悪いと思わねえのか」
「うーん、お前から見たら未来のお前は別人のように思えるものなのかも知れないけど、私にとってのお前は『あのころのアッシュ』って感じで。同一人物でしかないんだよね」
困り顔で笑うルシファに、アッシュは呆れたような笑みを見せ、意外なほど優しい仕草で後れ毛を耳にかけてやり、柔らかな身体を押しやった。「部屋に戻れ。──このままここにいられたんじゃ意思もくじけそうだ」
「やっぱりアッシュは据え膳を食わない」と笑い、それでもこれ以上誘惑する気もないようで、ルシファは額にお休みのキスを落として部屋を出て行った。
軽やかな足音が遠ざかって行くのを耳に捕らえながら、アッシュはやれやれとベッドに横になる。鼻先にまだ甘い女の香りが残っているような気がして、舌打ちして鼻までブランケットを引き上げた。
「……ちょっと惜しかったか……」
翌日、別れを惜しむように全員で食事をし、それぞれがまた目的を果たすために旅立つ前に、全員があの裏路地まで親子を見送りにいった。
「あっ、いたっ!」
アニスが行儀悪くありじごくにんを指差すのを、ティア、ナタリアは感心したように頷いてまじまじと見つめる。
「わたくし、あれを作り話の童話とはもう思いませんわ」
「私も。こんな素敵なことを起こしてくれるものだったなんて」
色々複雑な気持ちはあれど、ルークが元気に、幸せに生きていてくれるということが保証されたのだ。
「ここに来たことで歴史が変わって、戻る先がマルクトの宮廷になっていればいいのですがねえ」
「いや、ガルディオス家の若奥様に収まっていることを祈る」
それぞれと名残を惜しみながらルシファと子どもたちは全員と抱き合い、キスを交わす。
「ご主人様、ボクもまた会えますの?」
「もちろん。子どもたちも懐いてるんだ、今年も会いに行くよ」
「はいですの!」
「さて、今回の要求はなんだろ? あんまり無茶を言わないでくれればいいんだけどな」
ルシファがありじごくにんを振り返ると、ルークと手を繫いだウィスタリアが、大きな人物を正面にして、後ろにひっくり返りそうなほど顔を反らして見上げていた。
「ありじごくにんさん……あの。ちょっとかがんで下さる?」
「ウィス?」
驚く面々の前で、会いかわらずへらりへらりとありじごくにんが奇妙なポーズで上体を倒す。その顔に、ウィスタリアがキスをした。「おじさまに会わせて下さって、ありがとう」
「え」
「あ!」
「屑!!」
まるでありじごくにんが煙と化して爆発したように、周囲が虹色の煙に包まれた。
「げほっ! なんなの、これ?! ウィス! ナイル! そこにいる?!」
「は、はい、母上!」
「おかあさま」
「ルシファさん? おれが女の子と手、繋いでるから! おれの腕掴んでんのはアッシュ?」
「ち、何にも見えねえ……」
それぞれが必死で手を振った効果なのか、比較的早く煙が晴れると、周囲はすっかり日が暮れていた。
「な……何があったの? アニス? ティア?! ナタリア、ガイ、ジェイド!!」
周囲を見回して不安げに叫ぶルシファに子どもたちが駆け寄ると同時に、アッシュが路地の入り口を振り返った。「誰だ!!」
「──やはり今日だったか」
少し呆れたような、深みのある低い声が聞こえ、闇の中から滲み出すように男が一人現れた。
鍛え上げられた体躯が服の上からでもわかる、堂々たる偉丈夫である。だいぶ白いものが混じっているが、その髪はまぎれもなく「キムラスカの赫」で、度肝を抜かれたように立ちすくむものの中で一番素早く立ち直ったらしいルシファが、驚いたように声を上げた。
「アッシュ? ──だよね?」
「ああ。五十八のな」
「「五十八?!!」」
ウィスタリア以外の声がきれいに重なる。新たなアッシュは全員に視線を流し、ルシファの上で止めると、細めた目に笑みを滲ませた。「いつまでも魔物のように姿が変わらないと思っていたが、こうしてみるとあいつもちゃんと歳を取っているのがわかるな。やれやれ、安心した」
「あ、あれ……行き過ぎた? えーっと……ちゃんと帰れるのかな私たち……」