──Luke──
(時間がない。お前と馴れ合うのはここまでだ!)
そう言われて意識を弾き出されたときには、おれはもうアッシュのことが好きだったような気がする。
……というと少し語弊があるかも知れない。あの頃は「好き」と言葉ではっきり言えるような、そんな強い気持ちでは、まだなかった。
アッシュの視線で世界を見て、おれは初めて『外を知る』ということの本当の意味を知った。アッシュはおれという人間が誰にも必要とされてない存在だってことをただ思い知らせたかっただけで、そんな意図がなかったことは、もちろんわかってる。
おれはアッシュの意識の隅っこで、決しておれにだけは知られたくないと思っていただろう過去のこと──虐待同然の超振動の実験のこと、父上に振り向いてもらえない悲しみ、ようやく己を見てくれる人が出来たという喜び、意思の力を奪う甘い水、ダアトを脱走して半死半生で辿り着いたバチカルで見たもの、私刑じみた暴力の数々──を知ってしまった。同時に、アッシュも多分、そのときにおれのことを色々と知ってしまったんだろう。
夢を、見るんだ。
おれはテーブルに着いて、ナイフとフォークで食事をしている。真っ白で、ほわほわで、半分に割るとふわっとバターの香りのたつ焼きたてのパン、はちみつのソースのかかったチキンのソテー、あれは何のポタージュだったのか涼しい翠色のスープや、ほかにも色々と並んだ料理を、おれは上機嫌で食べている。チキンのソテーは大好物だったし、皿の外に落ちた食べ物のかけらや、真っ白なクロスに飛び散ったソース、べたべたになった手や顔を、ガイは見ないふりをして、ただおれが、昨日より上手にナイフとフォークを使うと褒めてくれた。
だけど、控えたメイドたちの顔は嫌悪感に歪んでいる。ランドリーメイドの苦労をひそひそ話し合っている。ガイはよく平気ねと、そんな声も聞こえる。彼らは声を顰めようとしていない。『赤ん坊のようになってしまったお可哀想なルーク様』には、どうせ意味がわからないと思っている。ガイも……咎めない。みんなが顔をそむける『帰ってきたルーク様』。その面倒を良く見ている自分自身に、少し酔って上機嫌だ。
口の中の食べ物が、土塊に変わる。
おれはメイドたちや、聞こえよがしの悪口雑言を咎めてくれないガイに腹を立て、癇癪を起こしてテーブルの上のものをなぎ倒す──。
鋭い音を立てて、細い鞭が手の甲に落ちてくる。おれが問題を解くことが出来なかったから。公式をご存知でしょうと言われたけど、その公式がおれにはわからなかった。その問題が難しいものなのか、易しいものなのかすらおれにはわからなかったんだ。
鞭は派手な音を立て、鋭い痛みを与える。子どもの躾け用の鞭はその痛みに反してさして傷を与えないものだ。だけど、おれの手の甲はいつも腫れ上がっていた。鞭打たれる回数は多かったし、ほとんどの教師がおれを打ちたがったからだ。今にして思えば、公爵家から『無能な家庭教師』と評価されることを恐れる焦りなんかが、だいぶあったんだろう。おれはその焦りをぶつけるように鞭打たれ、腫れ上がった手が疼いて、眠れない夜もあった……。ちゃんと出来ないおれが悪いんだからと誰にも言えず、ベッドに潜って泣いたっけ。気付いてくれたのはヴァン師匠だけだった。師匠はこの手では稽古に支障が出ると言って、良く効くっていう軟膏を塗ってくれ、家庭教師を替えるよう進言してくれた。新しい家庭教師は結局こなかったけども……。多分、父上も成人前に死んでしまう『ルーク』に教育を与えることの無意味さに気付いたんだ。
おれには、本当にヴァン師匠しかいなかった。師匠に憧れていたし、大好きだった。……今だって、嫌いになったり、憎んだりなど、決して出来ないくらいに。
障気の泥から子どもを引き上げようとすると、そこから汚れた手が次々に涌いてきて、おれを引きずり込もうとする。無抵抗のまま頭から泥の海に突っ込むと、四方八方から手が伸びてきて、おれの身体をそのまま沈めようとする。毛穴と言う毛穴から、何か良くないものがどんどん染みて、全身が凍るように冷たいのに、灼熱の痛みが全身を襲う。
(愚かなレプリカ・ルーク)
そうだ、おれは愚かなんだから。死んで行った人たちはもっと痛かったんだから。──おれには悲鳴を上げる権利なんて、ない。
(愚かなレプリカ・ルーク)
全くその通りだと言わんばかりに、手という手はおれの口をこじ開け、汚臭のする障気の泥を詰め込んだ。耳にも、目にも……。
(愚かなレプリカ・ルーク)
(愚かなレプリカ・ルーク)
今度こそ我慢出来ずに悲鳴を上げてしまったけれど、喉が焼けて声にならない。悲鳴を上げようとした振動で、腐ってとろけた喉の肉が内側に滑り落ちるのを感じた。
(愚かなレプリカ・ルーク)
(愚かなレプリカ・ルーク)
(愚かなレプリカ・ルーク)
(愚かなレプリカ・ルーク)
師匠の声が、頭の中で、わんわんとこだましている。
ごめんなさい
ちゃんとつぐないます
もういたいなんていいません
いきたいなんて、いいません──
悪夢に魘されて飛び起きると、誰もいない闇の世界に、気付かれないように息を潜めて、おれの様子を窺う気配を何度か感じた。
アッシュの見る夢の中では、おれは傍観者ですらなく、おそらく『気配』だけでたゆたっている。背中を丸めて泣いている小さなアッシュをいくら抱きしめたいと思っても、その水を飲むなと叫びたくても、あいつを捕食しようと襲ってくる魔物や、面白半分に殴ったり蹴ったりしてくる神託の盾兵たちから守ってやりたくても、おれには何も出来なかった。あいつは残酷な夢を繰り返し繰り返し見ている。それを、口も手も持たないおれは、唇を噛んでただ見守り続けた。
──だから、酷い汚臭の漂う泥の海の中に、無数の手で引きずり込まれ溺れ続けるおれを、アッシュがどんな思いで見守っているのか、わかったんだ。助けたいと思ってくれていることも。溺れ、障気の泥に爛れていくおれを、なんとか引き上げられないかって、模索している気配をいつも感じた。
おれが辛いと思ってたことなんて、アッシュの苦しみの十分の一だってないのに、少しずつ少しずつおれに語りかける言葉から、棘がなくなっていく。ガイがおれを迎えに行くってパーティを外れたときは、衝撃や憤り、悲しみで渦巻く胸の、本当に隅っこの部分に、ガイへの理解と、ほんのちょっとだけおれが見捨てられなかったことにほっとする思いがあったのを、おれは知ってる。
アッシュは意識を同居させることで、夢を共有してしまったり、考えていることを悟られたり、そんな弊害があることを知らなかったんだろう。アッシュに意識があるかぎりは被験者の優位性の問題か、おれにはあいつのこと何も読み取らせてはくれないけれど、眠ってしまったり、無意識に思いめぐらせていることはおれにだってわかってしまう。それで、あいつの思考回路や結論の出し方、価値観なんかがやっぱりおれにすごく良く似てる、ってことも少しずつわかってきたんだ。
……あ、良く似てる、のはおれがアッシュに、だよな。
そんなこともあって、アッシュの意識から弾き出されたおれは、何かを考えて結論を出さなければならないとき、おれはこう思うけど、あいつはどう思うかな、とか。おれはこうするけど、あいつならどうしたかな、とか。そんな風に考えてしまうことが多くなった。
こんなときだから……要するに四六時中ってことだ。
自分のことだってこんなに考えたことがないってくらい、おれはアッシュのことばかり考えていた。
だからかな、ほんの短い期間、意識が触れ合っただけなのに、どんどんアッシュのことが知りたくなった。おれのことも、もっと知って欲しくなって……。
触れたくなって。
……触れて、欲しくて。
気がついたら、アッシュのことを好きになってた。
好きなもの、嫌いなものが良く似たおれは、本当に欲しているものも……多分とても良く似ている。それを絶対に他人に知られたくないと思ってしまうところも。
だから思うんだ、アッシュがどんなことを喜んで、どんなことに幸せを感じるか、おれ以上にわかるやつはいないんじゃないかって。──いや、この言い方も語弊がある。知ってるっていっていい。
だから、だから……。
おれがアッシュを幸せにしたいなあ、笑わせてやりたいなあと思ったって……そう、変な話じゃないよな?
──いや、変か。
……やっぱり、おれなんかがおこがましいかな……。
被験者とレプリカ、って以前に、おれたちは男同士だもんな。それに、大勢の人の幸せを奪ったおれには、そんなことを願う資格もない……。
そんな気持ちは、絶対に気付かれるわけにはいかない。アッシュのおれに対する態度はずいぶん柔らかくなったと思うけど、それはやっぱり初めのころと比べるとってことで、他の人に対する応対よりはかなりきつい。
おれは正直、上手くやってたと思う。
おれの気持ちにアッシュが気付いていたら、多分もっときつい態度をとられてたか、無視されたり、避けられたりしたような気がするから、おれはきっと。上手に気持ちを隠してたはずだ。──その時までは。
グランコクマの雑踏の中で、風になびく真紅の髪を見た。
アッシュはいつものように一人で、おれも一人だった。空は晴れて青く、風は涼しくからりと渡り、頼まれたものや、欲しかったものを買い込んでもまっすぐ宿に戻るのが惜しかった。だから大きな噴水のある公園のベンチに座って、残った小銭で買ったアイスクリームを舐めながらぼんやり人の流れを見てたんだ。アッシュを見つけたのは、そんな時だった。
あいつはいつもは、どうしても目立つ法衣を脱いでいる。そうすると不思議なほど気配もなく凡百の人ごみの中に紛れ込んでいた。だけどそのときアッシュはその法衣を着ていた。何か、その服の力──立場を借りなければならないことがあったのかも知れない。
人目を引く真紅の髪と、法衣の威力も相まって、アッシュの周りだけまるで常と違う清浄な空気が流れているようだった。通りすがったお婆さんが、拝むような仕草であいつの背中を見送っている。
かっこいいなあ……。どうしておれは、ああなれなかったんだろ……。
ため息を付きながらぼんやりと見つめていると、アッシュの顔がふっとこちらを向いた。残念ながら、表情までわかるほど近くではなかったし、すぐにまた前を向いてしまったので気付かれたのかどうかもわからなかった。おれはあいつと違って意識しなくても目立たないし、気付かれなくとも仕方ない。
そのとき、ずっと後ろのほうで鋭い悲鳴が聞こえた。おれが腰を浮かせてる間に、悲鳴やざわめきが大きくなり、おれは食べかけのアイスクリームを取り落として走り出した。視界の隅に、おれより早く行動を起こしたらしいアッシュの姿が目に入る。
いくらも走らないで辿り着いた目抜き通りで、一体何が原因なのか荷駄を積んだままの大きな馬が暴れているのが見えた。弾き飛ばされて倒れたままの人もいるのに、暴れる馬と荷物に押されて救出も出来ないでいる。瞬間、体中の血が凍った。
──子どもが……!
おれは前足を振り上げて竿立ちになった馬の腹の下に滑り込み、硬直したままの子どもを抱えて横へ転がった。脇腹を掠めるように、跳ねる馬の後ろ足が地響きを立てて叩き付けられ、敷石が割れて浮き上がる。更に横に転がって荷馬車との距離を開けると同時に、アッシュの剣が馬体と荷台を繋ぐ馬具を断ち切り、譜術で馬を昏倒させるのが見えた。
血の臭いが漂うほどに、怪我人も多く出たらしく、周囲はにわかに騒然とする。強張ったおれの腕から子どもが逃れ、たぶん母親だろう、駆け寄ってくる女性に泣きじゃくりながらしがみつく。泣きながら何度も頭を下げる女性に苦笑いしながら、おれはまだ地面に座り込んだままだ。腰が抜けてたんだ。敷石を割るほどの激しさで脇腹をかすった馬の脚は随分と重々しい音を立てて道を打った。その風圧は、その脚がまともにおれの腹に入っていたらどうなっていただろうとぞっとするほど重みと勢いがあったんだ。
気付くと横にアッシュが立っていた。眉間の皺が何割増かになっているのを見てほんのちょっぴり憂鬱になる。みっともないのはわかってるんだ。ただ、ちょっとだけ、休んだっていいじゃないか。
「……良くやった」
……おーい。
顔と台詞が全然合ってないぞ。褒めてくれるんなら、もっとらしい顔してくれればいいのに。
おれはじわじわと赤くなりそうな顔をふて腐れたようにそっぽを向くことで隠し、何とか立ち上がろうとした。
でも死にかけたダメージは思ったより大きかった。足は骨が抜けたようにぐにゃぐにゃで、ただ立つだけのことができなかったんだ。
バランスを取ろうと足掻くことさえできず、そのまま倒れそうになった瞬間、アッシュが反射的におれを抱きとめた。
……ってことがわかったのは一泊空けてだ。その瞬間、目に入ったのは真紅。
それは、生命の源である鮮血のいろ。
──命のいろ。
ふわりとおれを包んだのは、教会の内陣に漂う清々しい香の香りだった。
瞬時に顔に血が上るのがわかり、おれは慌ててアッシュを押し返そうとした。なのになぜかアッシュはおれを引くようにして、ますます強く抱き込もうとする。
正面からアッシュの顔を見ることも出来ず、おれは尚も暴れながらアッシュから離れようとした。馬に踏み殺されそうになった恐怖とは別の胸のばくばくが、アッシュに聞こえてしまう。気付かれてしまう。……いやだ……!
だけど、気付かれませんようにという祈りは通じず、アッシュの目が驚いたように見開かれた。真っ赤になった顔に、気付かれたんだ。
もうわかったんだろ。気付いたんだろ。──気持ち悪いだろ?
だから、離してくれよ……!
情けないことに、アッシュの腕の中は思った以上に暖かくて、おれがずっと抱え込んできた孤独も、吹き飛ぶようだった。軍人『アッシュ響士』と言うより、聖職者『詠師アッシュ』であることを強く意識させる香りがあまりも意外で──居心地が良くって、おれは身動きが出来なくなり、いっそこのまま消えてしまいたいという恥ずかしさに、ぎゅっと目を閉じた。
アッシュが覗き込んでくる。視線を、感じる。
「──お前、」
初めて聞く困ったようなアッシュの声におれはヤケクソになって、真っ赤な顔のまま、叫んだ。