Hosanna in excelsis

 目を惹いたのは、アッシュがいつも密かに羨んでいる、暖かい焔の髪のせいだけではなかった。

 柔らかい色彩ながら、色の偏りのない様々な種類の大きな花束を抱え、どこか人目をはばかるようにこそこそと歩いているレプリカが、元から衆目を集めていたからだ。
 元はアッシュと、実体と鏡像のように、寸分の狂いもないレプリカ体。生活習慣の違いで差異が生じ、それは大きく広がるばかりとはいえ、顔は今でも同じはずなのに、なぜか少女めいて見えるルークの顔は、半ばが大切そうに抱えた大きな花束に隠されている。まるで香りを楽しんでいるようにも見えたが、伏し目がちで苦痛を堪えたようなその表情が、いやでもそうではないと悟らせた。

 仲間の目からも隠れるように村を出て行く彼のあとを、思わずつけてしまったのは、決してその顔が気になったからではない。そのこそこそした態度が、良からぬことを企んでいるように見えるからだ。
 そう、胸の内で誰に聞かせるでもない言い訳を呟きながら、十分に距離を開けて、アッシュは彼のあとを辿った。

 ルークはしっかりと花束を抱えたまま、チーグルの森に入って行った。魔物もいるというのに、警戒する気もないらしい。それなりに彼にも実力がついていて、魔物は侵入者の様子を息を潜めてうかがっているだけだ。そこかしこに気配があったとしても、襲ってくる気配はないからいいということなのだろう。
 朽ちた木を渡した小川を何度か渡り、森の深く深くへ彼は長いこと歩き続け、やがて道の途切れるところ、人が入れる最奥の場所へ辿り着くと、少し開けたその場所の隅にある、小さな石ころの前に跪き、丁寧に花束を置いた。
 そこに至ってようやく、その花が死者を弔うためのものだと、アッシュは気付いた。目印の役目しか果たせない小さな小さな石は、墓標だったのだ。
 だが、人里離れ、魔物も住み着くこんな森の最奥で、一体誰が死んだというのだろう?
 彼は目の前の土を、優しい手つきで均すように何度も撫で、膝立ちになり、胸に両手を当てると、まるでうなだれるように頭を下げた。

 深い森のうっそうとした木々の隙間から、光の梯子が降りてくる。光は、ルークの背中を明るく照らしたが、対照的に反対側には深い陰を落とした。光に、細かな塵や、羽虫、どこから飛んで来たのかわからない小さな花びらが煌めく。一幅の絵画のようにも、彼の白い上着の燕尾が地の上に長く垂れているせいか、敬虔な聖職者が一心に祈っているようにも見えた。

 何にか?
 死者にか。或はローレライ?

 アッシュは一応はローレライ教団に属するものだが、こんな風に一心に、何かに祈りを捧げたことなどない。祈りは所詮自己満足のためにするものでしかなく、この世に全知全能の神など存在しないことを知っているからだ。ましてやローレライは、アッシュにとって最早忌々しいだけの存在でしかない。

 何かを『美しい』と感じるのはどのくらいぶりだろう?

 大量殺人者の彼が、全く穢れを持たないことに、アッシュはふいに気付いた。アッシュとは桁の違う人数の血を浴びていながら、彼はアッシュとは違い、忌々しいほどに白く、清らかに見える。

 彼が何の用でここに来たかを知ることができ、好奇心はすでに満たされた。
 何故仲間たちの目を盗むように一人きりで来たのかは知らないが、これ以上はその無垢さを直視する気にもなれず、アッシュは静かに踵を返した。
 直後だった。

 まるで、彼を守護する結界が解かれたのを気付いたように、左右から魔物が飛びかかるのが視界の隅に映り、瞬時に抜剣してルークを振り返る。彼は気付かないのか、身じろぎもせず、まだ深くうなだれたままの姿勢で祈りを捧げていた。
「レプリカあぁっ!!」
 アッシュの咆哮と、血飛沫が上がったのは同時だった。
 凪ぎ払うように振られた剣は、しかし魔物に届くことなく宙を切った。アッシュの軸足に、ルークが全身でしがみついたからだったが、魔物が逃れたと知っても、彼はアッシュの足を離さなかった。追い打ちをかけることすら許さないというように。
 二頭のライガは、彼に深手を負わせたものの、まだグルグルと唸りながら、周囲を旋回している。
「アッシュ、止めてくれ! このまま森から出て行ってくれ! こいつらは、お前にはなにもしないしさせねえ! だか……らっ!!」
「クソがっ!! うるせえんだよ!!」
 ひどい憤ろしさのままに、アッシュは剣を持った手で彼を殴りつけた。柄が当たったらしく、ルークが短い叫びを上げて仰け反った。左目の下辺りが見る見る腫れ上がっていく。だが、しがみついた手を離そうとしない。引きはがすために何度殴っても、彼はアッシュを離さなかった。
 もみ合っているうちに緩んだ腕から足を引き抜き、容赦なく蹴り飛ばすと、ぐぼっという嫌な音をたてて足先が腹にめり込んだ。息が詰まり、悲鳴を上げることさえ出来ず、さすがに力の抜けた手を離して、ルークは地面に倒れ伏す。苦しげに咳き込んでいる彼の様子を視界の端に収め、二頭の魔物に向かったが、彼らは少し離れた朽木の上にすでに避難していて、少しの間だけ逡巡する様子をみせたものの、そのままもっと深い、人の入れぬ森の奥へと駆け去っていった。

 舌打ちして振り返ると、アッシュの手の届かないところにライガが去ってしまったからか、力尽きたように伏して震えているルークをみやり、剣を納めて彼の前に立ち、ぐしゃりと髪を掴んで引きずり起こした。
「……っ」
 唇の端は切れ、柄が当たった左頬は青黒く腫れ上がり、吐瀉物が口元を汚す。左の目からだけ、生理的な涙が、血とともに流れ落ちていく。
 それなのに、ルークは淡く満足そうに微笑んでいた。

 顔を背けて手を離し、力なく頽れたルークに、水のボトルを投げつける。
 それで口を濯ぎ、血と吐瀉物の残滓を吐き出してから、ルークは、小さな声でありがとう、と呟いた。
「……なんで逃げねえ」
「……」
 片目からだけだらだらと涙を流しながら、ルークは何かを言おうというように一度は口を開けたのだが、結局諦めたように口を閉じ、深く俯く。
 少し待ってみたけれど、ルークが口を開くことはなく、苛立ちだけが募った。

 いつもは腹が立つほど楯突いてくるくせに、なんではっきりしゃべらねえ!

 話しても無駄だと言わんばかりの態度にイライラする。全力で、気の済むまで殴り飛ばしてやったらさぞすっきりするだろうにというどす黒い衝動が沸き起こり、それを押さえるために固く握られた拳が震えた。
 睨むようなアッシュの視線の先で、ルークの腕から伝った血が、ゆっくりと地面に染みていく。そこだけ草が紅く、土が黒々と色を変えていくのを見て、グミは、と声を掛けると、伏せられたままの朱色の頭がゆるゆると左右に振られた。
 グミも持たずに魔物のいるところへ入るとはと呆れ、溜め息をついて一歩を踏み出したとき、弾かれたようにルークが顔を上げた。萎えた足が、まるで逃げようというように、草を掻き、土を剥き出しにする。
 罠にかかった獲物が猟師を見るような、怯えた目と正面から視線が合ったとき、堪えていた最後の枷が弾けとんだ。

 一体何が起こったのか、ルークは混乱したままで闇雲に手足を振り回し、アッシュを拒む。魔物の爪に裂かれたまま、手当もされない肩の傷から血が飛び散り、アッシュの顔や黒衣を穢していく。
 荒れ狂う凶暴な衝動を、もう止める気もない。その術もない。
 服か、腕か、魔物の爪にずたずたに裂かれ、どす黒い血が吹き上がっているのを思い切り指を立てて掴んでやると、濁音だらけの悲痛な叫び声が上がった。

 ああ、そうか。最初からこうすれば良かったのか。
 怒りのままに、憎しみのままに、──のままに。
 澱んだ憤ろしさが、晴れて行く。

 痛みの閾値を超えてしまったようで、ぐったりと力を抜いたルークをうつぶせに返すと、本来の利き手である左手でうなじを掴んで地面に縫いつけ、右手を彼の服にかけた。

 偉大なる女王の墓所を荒らす人間を、森の魔物たちは息をひそめて窺う。
 しん、とした森の中で、二人の人間の忙しない呼吸、粘着性を持った水音、噛み殺された喘ぎだけがいつ果てるともなく続いていた。

 魔物の気配が周囲を取り囲む、こんなところでこんな真似をするなどと、人が聞けば狂っていると思うのだろうが、他の魔物を近寄らせないよう殺気を纏い、威嚇しながら捕えた獲物を咀嚼するのは、これまでに一度としてなかったほど強烈にアッシュを昂らせた。抵抗する気力を根こそぎ奪われたルークの制止の声も、最初と違って控えめに色づき、その意味合いを変えている。眉を寄せて、固く閉じた目蓋の奥で、快感を追っているのが、後ろから見える横顔からも見てとれた。耐性が全くないがために簡単に上り詰め、あっけなく弛緩するのを繰り返す、その度に強い圧迫感と陶酔とをアッシュに与え続ける。

 もう、終わりが近い。

 あまりに過ぎる快感に、アッシュの喉の奥からも低い声が漏れ出した。それに気付いたらしいルークの声が煽られたように高くなり、細かく跳ねるように身を震わせた直後、アッシュも堪えきれなかった短い叫びを上げ、ぐったりとルークの背に身を沈めた。
 激しく喘ぎながら二人はしばらくそのままに呼吸を整えていたが、極まったのが一度であったアッシュの方がやはり回復が早く、ゆっくりと身を起こす。汗でびしょぬれになった髪をかきあげ、胸や背中を伝う汗を不快に感じながらもルークを抱き起こし、自分よりも先に水のボトルを宛てがってやった。

 ボトルにぶるぶると痙攣したままの両手を添えて、必死に水を飲んでいる姿が、哺乳瓶を吸う赤ん坊のようにも見え、思わず笑いが漏れる。

 憑き物が落ちたような、晴れやかな気分だった。
 己のレプリカに対して長い間抱いていた怒りや憎しみは今、すべて吐き出してしまったとでもいうように……。

 不思議そうに見上げてくるルークの口にレモングミを押し込んでやりながら、結局、俺は彼とこうしたかっただけなのかも知れないと、素直に思えた。
「痛むか」
「肩なら、もう痛くねえ」裂かれた方の肩を少し回すように動かして、ルークは答えた。「そうじゃねえとこなら、最初から痛くなかった」
「そうか。──なんだよ」
「なんで慣れてんの」
 恨みがましい目で見つめてくるのに閉口して理由を問えば、先ほどとは違って間髪入れずに返事が返ってくる。
「慣れてるからだ」
「ちぇっ」
 口を尖らせてそっぽを向くルークをそっと下生えの上に横たえてやり、途中で暑くなってあちこちに放り投げた服を拾いに立ち上がると、
「あのお墓さ」
 木々の隙間からのぞく空を見上げて、ルークが囁くような声を出した。
「……お前の同僚だったアリエッタの……お母さんのお墓なんだ。……おれが、屋敷を出てから初めて殺したものなんだ」
「お前が?」乾いたタオルと着替えを放り投げてやりながら、ルークが屋敷を出た頃というのは一体どれほどの腕であったかと考える。すぐにタルタロスの上での無様な姿が浮かび、アッシュは胡乱げに片眉をあげた。
「アリエッタの養母ならライガクイーンだろ。あの頃のてめえなんかに倒せる訳がねえ。今だってかつかつだろうに」
「皆で殺したんだよ。よってたかって……。クイーンはただ、生きていただけなのにさ……」
 身体を後ろに捻って下肢を拭っている姿が、本当に無惨に手折られたあとの少女のようにも見え、アッシュは思わず目を逸らした。
「皆埋めるのを手伝ってくれたけど、時間がなくって。そんなに深くは掘れなかったから、あのときは土が盛り上がってたんだ」
「……」
「今は、こんな風にぺしゃんこだ。この中で朽ちて、土に還ったんだろう……」

 ──何も残さない、レプリカと違って。

 そんな風に続けられた声が聞こえたような気がして、アッシュは苛立たしげに舌打ちをした。
「……屑が。やっぱりお前は、剣を持つのに向いてねえ。早々に捨てちまうんだな」
「……うん。おれも、最近はそう思って来た。──剣術は楽しいけど、おれは多分、スポーツ感覚で楽しんでいたいだけなんだと思う。けど、それじゃダメなんだよな。剣を持ってたら、やっぱり戦えと、殺せと言われる」
「すべてが終わったら、そうすりゃいいだろ。てめえはどっかで歌でも歌って、おもしろおかしく暮らせばいい」
「歌! ああ、いいな、それ!」

 歌ってばかりであわや飢え死に寸前のキリギリスを揶揄したつもりであったのに、ルークは吹き出した。
「おれ、歌と声だけはティアにも良く褒められる。全部が終わったら、そうしようかな。どこかの劇団で下っ端扱いされながら、歌を歌って……剣を置いてさ。交代で食事当番しながら、馬車であちこち回るわけ。たまに夜盗に襲われたりなんかして、頑張って追い払ったら、あれ、あんた上手に剣を使うじゃないか、なんて言われて……」

 その光景はあまりにも彼らしいような気がして、思わず口元が緩んだ。ルークにそれと気付かれないよう、背を向けたままで適当に身体を拭い、脱ぎ捨てた服を一つ一つ纏っていると、本当にそうするのもいいような気がして来た。
 最も、その頃には完全に乖離して、このレプリカに吸収されてしまっているのだろうが……。だが、鮮血に塗れた道を歩んで来た己の末路がそんな楽しげなものならば、悪くはない。

 ルークの傷の上から、指を押し込むように握りつぶしてやったときの血が、グローブから染みて爪の間で黒く乾いているのを、替えのグローブで大切に隠してしまうと、ルークの上着がアッシュのものに変わっていること以外は、何事もなかったようにすべて元通りに見えた。
 けれどアッシュもルークも、二人の間に流れる空気が、互いの纏う雰囲気が、一変したことに気付いている。思い詰めたように悲痛な顔をしていたルークも、周囲を威嚇するような棘々しい空気を纏っていたアッシュも、今はもういない。どちらがどちらのものとも言えない、暖かく優しいものが、二人を確かに取り巻いていた。

 どちらが何を言う訳でもなく、二人は連れ立って、寄り添うように森の出口へ歩き出した。見つめ合うこともなく、話をするでもなく、手を触れることすらなく。今もなお、互いが分ち難く一つであることを、どちらも分かっていたから……。

 小川を渡って少し行ったところで、二人は立ち止まった。
 目が合うと、ルークが小首を傾げるようににこりと笑むのに、溜め息をつく。
「……分かった、先に行く。日が落ちる前に、お前も村に戻れ」
 時間を忘れて遊ぶ子どもにかけるような言葉をルークにかけて、アッシュは一人出口に向かった。連れ立っているのを、誰にも見られたくなかった。決まりが悪いとか、そういった理由ではなく……。大切に仕舞っておきたいものごとのように思えたからだ。先に行けと促して来たのは、ルークもやはり同じ気持ちだったからなのだろう。
 背をじっと見送っているのだろうルークの視線が、やがて感じられなくなるほど森を離れてから、ふと、アッシュはキスの一つもしていなかったことに気付いた。

 アッシュの姿が完全に見えなくなってから、ルークは少し道を逸れたところにある岩の上に腰を下ろした。
 森を出て、村に戻る気にはまだなれない。魔物から、アッシュから、受けた傷はすべて癒されたが、体はまだひどく火照っていた。今帰れば、勘の良い仲間たちに、確実に何かを気付かれるだろう。自分の服をダメにして、アッシュの服を着ていることの言い訳は、あのことを隠して上手く説明が出来るとしても……。
 ここに入って来た時の、辛く、凍えるようだった自分が嘘のようだ。最初から諦め切って、手に入れる努力すら放棄していたものが、一度とはいえ我がものにできたとは、信じられない。──現実感がない。
 だが、まだそこかしこにアッシュの残り香を感じる身体をぎゅっと抱きしめると、今頃になってじわじわと頬が熱くなってきた。

(アッシュ。おれ、アッシュが好きなんだよ。お前も、もう気付いただろうけど……。おれも、お前の気持ちにちゃんと気付いたからな? もしも優しいお前が将来、おれにひどいことしたって辛い思いをするようなことがあったら、これだけは憶えといてくれよ。抵抗したのはびっくりして混乱して、なにされるのか分かんなかったからで……おれにとってはすごく幸せな時間だったってこと……。おれ、これからお前のことたくさん考えるよ。そうしたら、おれがお前をこんなに愛してたってこと……いつでも思い出せるだろ)

 優しく、悲しいルークの声が聞こえたような気がして、アッシュはふと目を覚ました。
 極々軽くはあるが少し頭痛がしていて、寝袋の上に上体を起こしてしばらくぼんやりと頭を振る。テントの上からつり下げられた音素灯のぼんやりした明かりの中、周囲で雑魚寝中の者に起きる気配はない。
 皆を起こさないように、気配を断って外に出る。まだまだ明け方までは遠いようで、こんな時間に目が覚めたことなどないアッシュは星空を仰いで溜め息を付いた。

 あの日の夢を見たのは、ここがチーグルの森にほど近いからだろうか? エンゲーブの近くにテントを張って、興行の準備をしたのは昨日だが、アッシュはこれまでも、時間を見つけては半身が愛した小さな魔物にも会いに来ていた。己の中にあるルークの優しい記憶が、そうさせるのだ。

 彼にそういった意味で触れることが出来たのは、あれが最初で最後だった。そのあとは、ほとんど連絡事項以外の言葉を交わすことも出来なかった。ルークに激しい痛みをもたらすことが分かっていたから、回線も最低限の連絡時に、必要なことを伝えるだけで、ほとんど私用には使わなかった。他のものたちの目が気になったのもあるが、何故だかその必要もあまり感じなかったように思う。視線が絡めば、互いに同じ気持ちでいることが分かったからかも知れない。言葉はいらない、ただ、触れ合いたいと思っていることが──。

 エルドラントでそれぞれの存在理由を懸けて戦い、敗北はしたが、彼のために途を切り開いてやることが出来て、アッシュはこれで誰に、何に憚ること無しに己のレプリカを愛していると言えると、満足して瞳を閉じたのだったが……。
 気付けば自分は生き長らえて、半身は還らないまま、年月だけが過ぎた。
 大爆発の真実は、誰に答えを聞かずとも、己の中に、半身の記憶とともに知らされることになった。おそらく、彼が戻って来られる可能性が、とても低いであろうことも……。

 ナタリアの真実の婚約者として、時期国王になるものとして、果たさねばならない義務はあったが、時に辛く、時に喜び、恐れ、悲しみ、怒り、感激し、そして笑って生きた彼自身の記憶が、アッシュにそれらを振り切らせた。半身の鮮やかな記憶は、彼が世界をそう思っていたように、とても儚く、美しい。そのほとんどが悪夢のようなものであっても……。
 才能の問題ではなく、多分に性格的なものもあって、あのあと半身がずっと夢想していたように、歌を歌って生活することはさすがに出来なかったが、「暗闇の夢」に身を置いて、裏方の仕事に携わって生きて来た。剣は捨てなかった──彼と自分は違うものなのだし、それくらいは構うまい。彼が笑ったように、時に用心棒に早変わりしたりもする生活は、寂しくはあるが悪くはなかった。

 なぜこんなにも今日は彼のことが思い出されるのか、何かに導かれるように森の入り口に立つと、あの日、森の入り口が見えなくなるまでずっと感じていた彼の焦がれるような視線が、今もこちらを見つめているような気がして、焦燥と恋しさが溢れ、アッシュは森の中に飛び込んだ。
 いつの間にか、自分の持てる才能の限界のところまで上がってしまった剣術の腕に比例して、アッシュからは「己の気配」とも言えるものがすべて綺麗に削ぎ落とされた。そのせいで、今もなお多く潜むはずの魔物は突然の闖入者に気付くこともない。アッシュは、この森に満ちた半身の気配に、どうか失せてくれるなと叫び出しそうになりながら、ただ駆けた。
 息をつく間もなく、走って走って走り続け、チーグルたちの住処も通り越し、あれから一度も足を運んだことのなかった、あの最奥の、女王の墓所へ飛び込む。

 小さな小さな石ころ一つで、場所を示しただけの墓石の前に、見覚えのある、暖かい焔の色の髪をした少年が、膝立ち、胸に手を当てて、頭を垂れて一心に祈っている。あの日と同じように、木々の隙間から、月明かりで出来た光の梯子が降りてきて、少年の背を青白く照らしていた。

 それは、瞬きをしている間に消えてしまう幻か──。

 これも夢の続きではないかと、アッシュは瞬きもせず、息を潜めて少年の背を見つめた。あのとき、立ち去る自分の背を見つめ続けた半身のように……。
 その視線に気付いたように、ふと少年が顔を上げ、ゆっくりと振り返った。それが誰だか認識出来ないというように瞬きを繰り返しながら立ち上がり、真っ直ぐにアッシュを見つめ返す。
「……父上?」
「……っ」
 少年が二、三歩近づいて、アッシュの顔に目を凝らす。
「……より若い……?」
 驚愕に身動きすら出来ないアッシュの元に、少年は更に数歩を詰めて、目を見開いた。「……アッシュ……?」
「……レプリカ」
「うん」彼は頷き、更に近寄って、高くなった目線に目を細めた。
「遅くなって、ごめん。第七音素が少なくて、ここまで身体が元通りになるまで、時間食っちまった。その上、これから成長も老化もできねえ。正真正銘、化け物になっちまったけど、死ぬ時はお前と一緒だ。……それでもいいかな」

 アッシュは当然彼を待ち続けているはずだと、疑ったことさえないと言わんばかりの彼の態度に、うぬぼれんなと一言言ってやらねば。

 そう、思うのに。

 身体は心と裏腹に、勝手に動いた。少年の二の腕を乱暴に掴み、引いて、倒れ込んでくる身体を思い切り抱きしめた。骨が砕けたって、構うものか……!

 少年──あの頃のまま、何も変わらないルークは、突然押し込められた狭く苦しい世界の中で、初めて安堵したように深い吐息をもらした。どちらからともなく見下ろし、見上げ、唇を合わせる。
 長い間互いに焦がれ続けた一瞬のそれは、強く押し付け合うだけの子どものように稚拙な口づけだったけれど、強く心を、身体の芯を震わせる。

「ずっと、キスしたかった」
「おれも……。変だろ、その先のことまでしたのに。そんなのが心残りだなんてさ……」

 木々を渡る風の音、虫の囁き、遠く、せせらぎの音。
 他には何もない。
 寄り添った二つの影が、溶け合うように一つに混じって行くのを、白い月だけが青白く照らしていた。


 (2011.05.01)