「お化粧を教えて欲しいの!」
階級がまた一つ上がり、同時にケセドニアの神託の盾騎士団駐屯所に異動になったティアが、仲間たちを出し抜いてルークのうちに遊びに行き、そう叫んでしまったのは、いかなる理由であったのか分からない。ティアは正直、化粧になどこれっぽっちの興味も持ってはいなかったし、見栄えを整える必要があるとも思ってはいなかった。別に、このままで十分という自信があるからではなく、自分が、自分自身のために他人の関心を引くべきところがあるとすれば、それは容姿などではないと思っていたからだ。
なのに、そんな言葉が口から滑り落ちたのは、アニスがルーク──ルシファに何度か教えてもらった、人に褒められたと嬉しそうに話していたのを、我知らず羨んでいたからかも知れないし、話題に詰まってしまったから、だったかも。或は単になんでもいいから、ただ、ルークに触れて欲しいと思ったのかも知れなかった。
けれどそう言ったとたんに、ルークが思いも寄らないほど狂喜乱舞したので、たまにはそんな、自分には似合わない、女らしい、可愛らしいことを楽しんだっていいのかな、とほんの少し思えた。
バチカルで、ここに住んでいると聞いて来たと、身動きが取れずに地団駄を踏んでいるナタリア以外の四人でアッシュを訪ねたとき、出てくる料理がみんな、それぞれの好物なのに気付いて、全員で絶句したのはもう一年以上前になる。
彼らが駆け落ちをして、うずうずしながらも三ヶ月は間を空けたというのに、天空滑車の乗り場で姿を目撃されていたうえ、港で人ごみに隠れようとしているところまで見られていたとあっては言い訳の余地もなかった。ひとしきり、この穴だらけの計画を立てたのは誰だと責任を押し付け合ったけれど、黙って聞いていたアッシュが「つまり、全員で面白がってあれこれ詰め込んだ結果がアレなんだな?」と疲れた声を出したところで、四人は憮然と押し黙った。
その前で、ルークがわっと泣き出した。
ありがとう、みんな、ありがとう。
私はみんなに会うのが怖くて、何もかも隠して逃げてたのに。みんなはとっくの昔に私自身を丸ごと受け入れてくれていたことに気付きもしないで、ごめん。でも嬉しい、ありがとう……。
謝罪の言葉より感謝の気持ちが多いそれに、アニスもティアも、ガイですら、ルークを抱き締めたのだった。込み上げる後悔や羞恥心や涙を、笑顔で押し隠して……。ジェイドですら、やれやれ、青春というものは恥ずかしいものですねえなどと言っていたが、押し上げられる眼鏡の奥で涙が光っていたのを、ティアは知っていた。
「眉はね、結構流行に左右されるらしいんだけど、あんまり乗っちゃ駄目なんだって。人それぞれあった形や幅があるから、見極めること。ティアのは元々整っているし、顔の大きさとのバランスもちょうどだから、ちょっとカットしてあげればいい。簡単だよ──ほら」
手鏡を渡されて覗き込んだそこに映った自分の顔を見て、ティアはちょっとびっくりした。ルークの言う通り、紙の上に落とされた毛先ほほんのちょっとなのに、見違えるようにすっきりとして見えたからだった。
それが終わると、いつも「簡単お手入れこれ一本」といった化粧水をパタパタ塗って終わりにしている自分には、使う順番や種類が全く分からない化粧品を次々に塗って行く。じっとそれを横目で見つめていると、ルークは何か勘違いしたのか、恥ずかしそうに言った。
「ずっと屋敷で使ってたものなんだ……これ以外、なかなか合わなくて。これだけ贅沢させてもらってる。……ね?」
最後の「ね」は、むろん、同じリビングのソファの肘掛けに両足を乗せてだらしなく寝そべって本を読んでいるアッシュに向けられたものだ。その問いかけに、アッシュは顔を上げることすらせず、「……ふん」と鼻を鳴らしたのみだった。
ルークが話しかけたのに、顔を向けもせず、これまで他人の前では隙の一つも見せなかった男が隙だらけの格好で伸び切っていることに、心のどこかでざわりと蠢くものがあった。それを押し隠してルークに向き直ると、ルークが苦笑した。「ごめんね、あいそ無しで……」
なぜ、ルークが謝るんだろう?
「面倒でも、化粧水はコットンで叩いてね。顔が冷たくなるくらいたっぷりでね……」
ルークは穏やかな声でレクチャーをしながらティアの顔に化粧を続けていく。
驚くほど時間をかけて肌を作り、睫毛の色よりほんの少し濃い茶色を細い筆の先に取り、丁寧に隙間を埋めて目にラインを入れる。憧れはあるけれど、自分には似合わないだろうと思う優しい色合いのピンクや、淡いパープル、虹色に煌めくベージュやホワイトを数種類の筆を使ってふわりふわりと乗せて行き、毛先が斜めの筆を取って、髪色より濃い目の茶色で眉を整えた。最後に肌触りの良い大きな筆で取った色はまたもや柔らかいピンク。頬にくるくると色を置いて、最後の仕上げにつやつや光るピンクを唇に差した。
「うん、我ながら完璧! すごく可愛く出来たよ!」
心底嬉しそうに自画自賛するルークに、ほんのちょっぴり疑いの目を向けながら鏡を覗き込むと、そこには見慣れたキツい印象の「女軍人」ではなく、ルークの言う通り──ティアがずっとずっと、そう生まれつけば良かったのにと思っていた「可愛い女の子」が映っていた。
紫なんて使っていたのに、一体どこに塗ったのだろう? 本当に自分なのかと思うほど、肌の透明な、全く印象の変わる、柔らかい女らしい顔になっていた。驚愕しておそるおそる頬に手を当てると、鏡の中の女も頬に手を当てており、それで間違いなく自分自身なのだと思えたほどだった。
ティアは、「美人だ」「綺麗だ」と言われたことなら何度かあったが、最も憧れてやまない「可愛い」という評価をされたことがない。自分でもそんなタイプじゃないしと諦めてもいたのに。
ルークの目には、自分はこんなに可愛くなれる女として見えていたのかと思うと、胸の奥からなにか込み上げてくるものが、あった。
「アッシュ、見て。どうかな?」
ルークがティアの肩をそっと押して、アッシュの方に向けると、アッシュはティアに顔を向けて、驚いたように目を見張った。
「ああ、いいんじゃねえか。見違えた。素顔も悪くねえが、ずっと可愛い美人に見える。お前には合ってるな」
驚いて目を見張ったのは、ティアもだ。あのアッシュが、可愛い美人だと。素顔も悪くないなどと素直に口にしようとは。
「ふーん、だ。そんなこと、私には一度だって言わないくせに。他所ではマメなんだから!」
「……塗りまくったところで、大して変わるような顔じゃねえじゃねえか」
女の子──という年ではないかも知れないが──になんて言い方だと、まるで我がことのように憤慨してルークを窺うと、ルークがすっと、アッシュから見えない方角へ、全く自然に顔を背けた。
形の良い、つやのある唇が、ふ、と弓形に綻ぶ。
目を離せず、ティアはルークの顔を呆然と見つめる。
それを、どのような表情と呼べば良いのか、ティアには分からなかった。
強いて上げるならば、妖艶な慈母といった、女の正反対の部分を同時に表した顔とでも言えばいいのか……。
なんでも反対のことを言わずにはいられない、小さな天の邪鬼の男の子を前にした慈母のような笑みでもあり、夫に対する愛おしさが溢れたような笑みでもあり。──本当は何もかもを見抜かれているのに、それに気付かず虚勢を張り続ける男に対する憐れみのようにも見えた。
恐怖からではなく、ティアはぞくりと身を震わせた。
この顔を、全く意識しないで普通に側にいられるアッシュはすごいと思う──元がアッシュと同じ顔だからなのだろうか? それとも、こんな顔は今のように、アッシュから見えないところで人知れず現れる顔なのだろうか。
誰にも言ったことがないが、ルークがまだ少年だったころから、ティアはルークの顔が好きだった。タタル渓谷に飛ばされて、気を失ったルークの顔を一目見たときの衝撃を、今でもティアは鮮明に憶えている。「可愛い」と「カッコいい」と「綺麗」を、同じだけの分量足して、きっちり三等分したような顔、それがルークだった。
ルークはそれまでのティアの人生に、決して現れたことのないような少年だった。男の子とは、みんな汚くて汗臭いものだとばかり思っていたのに、絵本の中にしか登場しない、憧れの王子様のように手入れの行き届いた長い髪や白い肌は、なんだかとても良い香りがしていて、急に自分の着たきりの軍服や毛先の痛んだ髪が気になったものだった。
彼が目を覚まして、どこまでも明るく、透明な翠の瞳がティアに向けられると、「なんて素敵なひとなんだろう……」とどぎまぎしたものだ。彼の容姿は、彼の態度や口調よりも身分の隔たりを感じさせ、ティアを気後れさせた。そんな自分を隠そうとした結果、なんだかつっけんどんな対応になってしまい、ルークの方もどんどん態度を硬化させていったのだ……。
手洗いを借りに席を立った間に、ルークはお茶の支度を始めていた。小さなサンドイッチを用意している隣でアッシュが手作りらしいケーキを切り分けるのを手伝っている。
小さな家の、狭い台所で行き交いながら、互いにぶつかることなく作業をこなす様子を見ると、きっと二人で台所に立つのは慣れているのだろう。二人はティアの視線に気付かない様子で、何か会話を交わしていた。見つめていると、微笑ましく思う心の後ろ側に、なにか冷たく凝っていくものを感じ、ティアは慌てて視線を外し、室内に目をやった。
カーテンやソファカバー、クッションなどはすべてルークが作ったものだという。すべてが、とても可愛い。丸ごと持って帰りたいくらいだ。それどころか二人が着ている、それぞれに良く似合ったセンスの良い服もそうなのだそうだ。落ち着いた色合いで整えられた室内に、白く塗られた、少し歪な棚はアッシュ作。完璧に整えられた家の中で、それらが微妙に息抜きの役目を果たしていた。
──家庭──。
この部屋を見ていると、そして二人の様子を見ていると、そんな言葉がぽんと浮かんだ。それはティアや、アッシュ、ルークのみならず、且つて世界を救う長い旅をした仲間たちの誰一人として、そう呼ばれるものの中で過ごしたことがなく、今も尚、持たないものだった。
思わず棚の前で呆然としていると、何か聞き捨てならないものを聞いたような気がして胸がざわめき、ティアはそこに並んだ本や雑貨を見るふりをして耳を澄ました。
「……ルーク」と。
今、アッシュがルークをそう呼んだ。
さっきもそう聞こえた気がしたのは、聞き違いではなかったのか。
音が聞こえるのではないかと思うほど、心臓がばくばくと激しく動き出した。「ルーク」はもう「ルーク」ではない。みんな、注意深く「ルーク」をルシファと呼んでいる。アッシュだって、当たり前のようにルシファと呼んでいるのに。
二人きりの時には、アッシュはルークを、ルシファとは呼んでいないのだ。
それは聞き耳を立てていたからこそティアにも聞こえたもので、ルークにのみ聞こえるように、ひっそりと静かに呼ばれた。
音になる前に一拍を空けて、想いの深さで名前を紡ぐように、大切に、大切に呼ばれた──。
当たり前のようにみんなのものだった「ルーク」の名は、今やアッシュだけのもの。「聖なる焔の光」は、アッシュただ一人を照らすものになったのだ。
それに気付いた瞬間、ティアはふと、曇った空が晴れて行くような爽やかな気分で、自分が完膚なきまでに失恋したことに気付いたのだった。また、それに気付いたことで、ティアはまだ、自分が諦められていなかったことにも気付いた。
アッシュからルークの気持ちを取り戻すことが出来るなら、もしもルークが男に戻りたいと心の底では思っているなら、その方法を探す旅に出てもいい、神託の盾を辞めたっていい。そんな風に思っていたのだ。
だが、今思い知った。ルークが男に戻りたいと思うことなど、もう絶対にないのだと。
すべてが二人の手作りの軽食やお菓子を、ティアはルークが思わず心配してしまうほど食べた。美味しいのはもちろんだが、ヤケ食いしたい気持ちもあったかも知れない。食べて、お茶だって何杯もおかわりして、ひたすらしゃべった。しゃべって、笑い合って、好きな人を失ったことを悲しみ、代わりに貴重な女友達を得たことを喜んだ。
夕食も食べて行けという二人に、ティアは階級が上がったせいで、仕事も増えたのだと柔らかく断って、二人の家を辞した。これからは同じ街に住むのだから、何度だって一緒に過ごす機会はある。
駐屯所へ帰る道すがら、私服で化粧したティアに、通りすがりの男たちの賛嘆の視線が胸ではなく顔に絡み付く。初めてのことだったが、今、それがとても気分が良かった。
化粧品を買って帰ろう、とティアは思った。ちゃんとしたものを一式、揃えよう。ルークが使っているのと同じのがいい。
これからは時間をかけて丁寧に肌を整えよう。もう、起きてから外出までが五分といういい加減なことはしない。一時間早く起きて、きちんと化粧をしよう。
ルークが施してくれた化粧に、今着ているような固い服は似合わない。今こそ、これまで指を銜えて見ているだけだった可愛い女の子らしい服を買う時だと思う。──ああ、なんだか髪型も変えたくなってきた。
今度ナタリアに会いに行くとき、びっくりさせてやろう。そして、ルークに教えてもらったのと自慢して、今度は彼女を悔しがらせるのだ。
そして、いつか。失恋の傷が癒えたら。
ルークに負けない恋をしよう──。