ほんの少しは会いたくないと思っていたかも知れないが、会ってしまったものは仕方ない。なんだって今日に限って実家で店番なんかしてるんだろう。
ルークはごくりと唾を飲み込んで、驚きに目をぱちぱちさせているアルヤに向かって手を突き出した。
「キウイ、一個ちょうだい」
子どもが生まれてからはちょうど一月、アルヤにルークが会うのは、ほぼ三週間ぶりになる。
本来は出産直後のルークは、ご近所中の手助けを借りながら子育てをしたはずだった。ルークに限ってそれがなかったのは、あり得ない人たちがあの小さなうちに三週間の間居座っていたからだ。
あの三週間前の日のことを、ルークは生涯忘れることがないだろう。
ベッドに横になったままのルークの代わりに、ライラとトーヴァがたまたま仕事のないアッシュを荷物持ちにして買い物に出かけ、半時もしないうちに家の前で騒ぎが起こった。何事と身を起こすルークと赤ん坊を抱いたままのアルヤの前に、庇うようにガヴィが立ち、それを更に庇うように立ったヤーノをガヴィが背後に押しやった直後のことだった。
怒鳴り合いながら掴みあった男が二人、寝室になだれ込んで来たのは──。
「おおおおおお!」
どうやら必死で阻止してくれようとしていたアッシュをぺいっと横に放り捨てて、闖入者は歓喜の声を上げ、まっすぐにルークの方へと駆け寄った。
──いや、正確には、アルヤの方へ。
「父……?! お、お父さん?!」
「おお、ルシファ! でかした。でかしたぞ! ──この子がナイル、我が嫡孫、我がファブレ家の跡取りであるのだな?!」
勢いに呑まれたようにアルヤが赤ん坊──ナイルを手渡すと、クリムゾンはその場を一歩も動くことなく、なんだかスキップでもするような足の動きを一度だけみせ、くるりと出口を向いた。
「母上ぇ?!」
『父上』はなんとか踏みとどまったのに、屋敷を出ることも出来ない病弱なはずのシュザンヌが健康そうに頬を染めて、アッシュに促されるように入って来たのを見ては、「お母さん」と言い換える余裕すらなかった。
「シュザンヌ、シュザンヌ、我が孫だ! 見なさいこの紅毛を! おお、本当に天使のようだ! 孫を、孫をこの腕に抱ける日が来ようとは……!」
「あら、まあっ……なんて利発そうな。ルー、アッシュの赤ん坊の頃に、本当にそっくり」
盛り上がっている身なりの良い不審な男女を仰天して見つめる友人達の中、アッシュが締め上げられて乱れた襟元を正しながら近づいてきた。
「済まない、みんながいるうちはと、なんとか阻止しようとしたんだが」
「う、ううん、いいんだ。──勘当が解けたら見せに行こうと思ってたけど、我慢出来ずに来ちゃったんだ……母う、お母さんまで」
「ルキアのご両親なのね」
どうやら不審者でないことにほっとして、友人たちが笑顔を見せる。二年前にしわしわの婚礼衣装で戻って来たルークはご近所中から質問攻めに合い、被験者の出自が貴族であることなどは話してあるため、突然の闖入者がこのあたりではついぞ見かけない貴族であることにも不審を覚えなかったらしい。
「お母さんが来てくれたなら百人力だよ! 良かったね」
勘当されていることを話してある友人達は、ルーク以上に嬉しそうに、ルークの肩を叩いた。彼女らは結婚に反対され、勘当された男女が、しばしば孫をかすがいに両親との縁を取り戻すことがあるのを知っているのだ。
──貴族なら、使用人を使うことも多くあって、何もかもを自分でやらなければならない市井の生活は慣れないかも知れない。助けが必要なら遠慮なく言ってね。
そんな風に言ってルークのうちから辞していった友人たちに、ルークもアッシュも頭が上がらなかったものだ。
大方の心配をよそに、クリムゾンとシュザンヌは、クリムゾンが仕事を休める三週間ぎりぎりまで孫とルークの面倒を見てくれた。狭い我が家に二人がいることが、アッシュもルークもどうにも慣れなかったが、寝かされたままのルークの代わりにアッシュが夕食を作る横で、慣れない手つきながら楽しそうに野菜を千切ったり鍋をかき混ぜたり皿を用意したりするシュザンヌ、アッシュに指導されながら孫を風呂に入れたりおしめを替えるクリムゾンなどは、バチカルにいたら決して見られることはなかっただろう。
クリムゾンは何も言わなかったけれど、勘当も解けたものと見ていいのだろうし、いずれナイルが動かせるようになったら、バチカルにも連れて行きたいとルークは思っている。ラムダスを初め屋敷のものたちにも見せたいし、何より喜んでくれるはずのナタリアに、一目会わせたかった。
「……ルキア。あたしの顔をまっすぐ見てごらん」
言われて、ルークはまっすぐにアルヤを見つめ返した。疚しいことは何も……ない。
「うーん、絶対言うと思ったのにな? おっぱい飲ませてって言わなかったの、アシュレイさん」
「言わなかった」
ルークはきっぱりと言って、ますます手を突き出した。
「ちぇっ、ドレス貰い損なっちゃったかあ、残念だな。──キウイで何作るの? 熟れてた方がいい?」
「豚肉の味噌漬けがいい感じに漬かってるの。ソースにしようと思って。私に付き合って、このところずっとあっさりした野菜中心の食事だったから、いい加減アシュレイにはちゃんとスタミナつくもの食べさせないと」
「ああ、美味しそうね。レシピ教えてよ。それ、今日作る? そうだねー……ソースにするなら痛む寸前くらい熟れ熟れの方がいいかな」
「うん、手で潰れるくらい柔らかいのが欲しいな」
「うーん、どれにしようかな……味噌床にはどのくらい漬けておくの?」
「一、二週間くらいかな。今回はベッドから指示してアシュレイとお母さんに漬けてもらったやつなんだ」
シュザンヌが息子と二人で台所に立ち、クリムゾンが洗濯物を畳んでいる横で、ルークは赤ん坊に乳を含ませていた、その時の風景を思い返すと、ルークの心はほんわかと暖かくなる。
「そうか、良かったね。勘当も解けたの?」
「何も言われなかったけど、多分」
「アシュレイさんも喜んだだろ?」
「どうかな……うん、多分」
「母乳の味はどうだって?」
「ほんのり甘くて美味しいって。……?!」
「……ルキア」
「ううっ……」
「嘘は良くないなあ」
「嘘じゃないもん!」
ルークは口を滑らした自分に腹を立てながらも、あまりの情けなさにわっと泣き出して顔を覆った。「アシュレイは、言ってないもん……!」
ただ、当たり前のことみたいに普通に飲んでいるだけで!
『おれとお前は違うんだ』
過去に戻ってそう言い続けて来た自分を蹴飛ばしてやりたい。そういう性癖は同じであって欲しかった。いや、あるべきだった。それともこの違いは性別が変わったことで明らかになったことなのだろうか? あのままルークが男でいたら、妻のおっぱいを飲みたがる男の気持ちがわかったというのか。
アルヤはあまりのショックに、頭上に金だらいでも落ちて来たような顔をして首を振った。「る、ルキア、あんまり悩まないで、あたしが悪かったよ。あー、知らん顔してあげれば良かった。……つーか聞かなきゃ良かった……。あのアシュレイさんが……? うわーマジで聞かなきゃ良かった……っ! これっ、持ってって! 今日だけ特別、余計なこと思い出させたお詫びだよ」
アルヤはルークの手に熟れたの一個と、今から食べごろになるのを二個乗せてくれたのだが、その同情に満ちた顔がまた屈辱感を煽った。
ルークは礼を言いながら、まだぺったんこだけど、今、アルヤの腹の中にいる初めての子どもが生まれたら、アルヤの旦那さんも母乳を欲しがりますようにと、恩知らずな呪いをかけたのだった。だってこんな屈辱はみんなで共有しなければ、恥ずかしすぎるではないか……!
アッシュがナイルを風呂に入れている間、ルークはちくちくとアルヤの洋服を縫っていた。一体何をして遊んでいるのか、アッシュが風呂に入れる時だけ、聞いている方も思わず笑ってしまうナイルの笑い声がひっきりなしに聞こえる。
やがて疲れきって眠った赤ん坊を子供用のベッドに寝かせて、アッシュが居間に入って来た。縫い物をしているルークにちらっと眉を顰め、台所で水を飲んだあとルークの側にやってくる。
横に座り、髪を弄び始めるのは、ベッドへ誘うための合図の一つでもあるので、ルークはおとなしく縫いかけのドレスや道具を片付け始めた。
「あんまり根を詰めるな。身体に触る」
「……うん。分かってる、けど」
「変わった服だな」
「そうでしょ。アルヤのなんだよ」
「ああ……」アッシュはルークの髪を指に巻きつけたり解いたりしながらアルヤの顔を思い出すように首を傾げた。「ああ、確かに似合いそうだ」
「うん、旦那さんとのデート用だから、可愛くて、個性的なのにしてあげたくてさ」
「亭主とのデート用に新しい服とは、豪毅だな」
「ああ、まあ……。これは彼女の戦利品だよ。私、賭けに負けちゃって」
アッシュはルークを抱き寄せて、耳朶を柔らかく吸いながら低い、くぐもった笑い声をあげた。
「──だせえな」
途端に真っ赤になったルークにきりっと上目遣いで睨まれる。
「? なんだよ」
「…………ばかあ!!」
2011.06.04のブログから移動させました。ちょっぴり加筆修正してあります。(2011.11.04)
